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品番がわからない場合


いよいよ建築に開眼する

いよいよ建築に開眼する
内外の建築視察

その後はどうされたのですか。

突然、福島の大学の先輩という方が広島の事務所に来て、引抜きにかかったんです。その方は日大が好きだったので、縁を感じて、引抜きにかかったんです。「来い。来い」と言われて、行くことにしましたけれど、その方に「窪田くんは建築が好きかね」と聞かれて、「嫌いです」と答えていました(笑)。その頃は大学を出て3年経っていましたけれど、それでもまだ建築をあまり好きではなくて(笑)、その頃もまだ車屋に移行しようと思っていて、車のこともやっていたんです(笑)。事務所を移って、その先輩から「建築は見に行かなくてはダメなんだ」と言われても、僕は「もちろん大学時代には海外にも見に行っているし、散々見たけれど建築は面白くない(笑)。建築学会賞作品を見に行っても何も面白くない。あれの何がいいんだ」と反論していたんですけれど、「見に行くことが大切だから、一緒に行こう」と引っぱってくれました(笑)。ちょうどその頃、安藤(忠雄)さんがメキメキと動き始めた頃でした。

そうだったのですか。

とにかく車に乗るのが好きで「車で行くんですね。それなら行きましょう」と行っていました(笑)。神戸で安藤さんの作品を見て、面白いかもしれないと思い始めて、他に磯崎(新)さんの「北九州市立美術館」「北九州市立中央図書館」にも引っぱって行かれて、建築って面白いかもしれないと思うようになっていきました。

北九州市立美術館
(C)小倉明夏

北九州市立中央図書館
(C)武部圭祐

建築を好きにさせてくれた、その方が恩師ですね。

その方が気付かせてくれたのは事実ですね。僕は早くに結婚をしていて、嫁さんとどこへ行くにもあてがなかったんですけれど、建築がちょっと面白いと思い始めてからは、とにかく車で延々と建築作品を見に行く人生へと大きく転換しました。徹底的に建築を見て回りました。それでわかりました。面白くないものを見に行っていたから面白くなかっただけで、それはこちらに事前に見抜く目がなかったせいとも言えますけれど、面白いものもあることにやっと気付きました。そう思って見ると、面白い作品の数がとても少なくそんな作品に出会える確率が低いことにも気付きました。コルビュジエとか、ミースとか、ライトの名前があまりにでかいという感じがして、どうしてもわからないから行ってみようと思って、アメリカやヨーロッパに行き始めました。実はアメリカには新建築ツアーで初めて行きました。そのときにやっぱりスゴくて、「なんや、おもろいものはめちゃおもろいやん」と(笑)。


ル・コルビュジエ


ミース・ファン・デル・ローエ
Courtesy IIT


フランク・ロイド・ライト

そのときには何を見ましたか。

アメリカを回ったときにはカーンの作品がスゴかったですね。「キンベル美術館」「ソーク生物学研究所」「エクセター図書館」どれも最高でした。

キンベル美術館

ソーク生物学研究所

エクセター図書館

バルセロナ・パビリオン

ナショナル・ギャラリー

トゥーゲントハット低

ファンズワース邸

カーンの作品はほとんど見ているのですね。

そうですね。スゴいなと思いましたし、自分が面白いと思う範疇で、アカデミズムもそれを認めながら、さらに建築の歴史を踏まえて、スゴいものがあるんだと気付いて、これは本当かなと思って今度はヨーロッパにも行って、ミースの作品を見たときには腰が抜けるかと思いましたね(笑)。こんなにスゴいってあり得ないと思いました。

テンションがグングン上がっていったのですね。ミースはどんな作品を見ましたか。

「バルセロナ・パビリオン」とか「ナショナル・ギャラリー」「トゥーゲントハット邸」を見ましたけれど、やはり「バルセロナ・パビリオン」を見たときには、こんなものをつくるんだというのがありました。これならば一般の人が見てもとスゴいと思えるし、プロが見てもここまでスゴいのかとどこまでも入り込めるんです。

一般の人でもあれくらいの作品になると惹かれてしまいますね。

日本では一般の人に受けるようなものは建築的には低次元で、商業建築で建築作品としては成立していないのに、一般の人はいいと言っていると思われていますけれど、アカデミズムが認めたものを見て、一般の人がいいと思わないのには、何か理由があるんじゃないかとはなかなか思いません。ミースやコルビュジエの作品を見れば、一般の人でもスゴいと思うんです。「ファンズワース邸」には、作業員のおじさんが何人かで遊びに来ているわけです。

窪田さんは若い頃に海外建築をかなり見ているのですね。その窪田さんに建築を見ることを勧めてくれた方のところにはどのくらいいたのですか。

そこには6、7年はいましたね。

それから独立ですか。

元々建築家になろうと思わない。単なる技術者として生きて行けと言われて、それは心に決めていましたし、その方に建築が面白いことは教えていただいたんですけれど、独立する気はまるきりなくて、その事務所でやっていればいいと思っていたんです。その方の事務所にいたときに、すごく元気だったおやじが突然倒れたんです。倒れたという電話をとって、「もう病院に行って、今は落ち着いている」と言うから、「わかった」と電話を切って、帰りにでも病院に寄ろうかなと思ったら、その先輩が「お前、何を考えているんだ。すぐに行け!」と言われて、すぐに病院に行ったら、実は大事で大手術でした。そのとき、その先輩に「これからおやじさんの看病もしなければならないし、看病するという者を置いておけないし、やめてくれ」と言われました。その頃、おやじは人を十数人使っていて、突然倒れたものですから、全員がこの会社どうなるんだろうという状況になっていて、その先輩のところをやめて、おやじの会社の社長になったんです(笑)。電話工事屋になりました(笑)。設計はもう終わりだ、電話工事屋の社長として、これから生きるしかないと思っていました。

それはいくつのときですか。

29歳の頃ですね。半年もしないうちにこの会社はダメだなと、僕の入る余地がないんです。おやじが古くから育てた僕にとってはお兄さんみたいな人ばかりですから、小さい頃から弟のように扱われていたわけで、これはいかんぞと思って(笑)、一応事務所の看板を上げようと、独立する気がなく、独立していくことになっていったんです。

周囲の状況から仕方なくという感じですね。

本当にそんな感じです。

前の会社のままでは無理だからやめて、設計事務所をつくったということなのですね。仕事はすぐにきたのですか。

もちろん全然こないです。お金はないし、仕事はないし、営業もできないし、困ったなという感じはしましたね(笑)。


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