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品番がわからない場合


ものづくりが好きだった少年時代

ものづくりが好きだった少年時代
子供の頃の特徴

窪田さんは岩国の生まれですか。

そうです。

小さい頃には海で遊ぶことが多かったですか。

瀬戸内工業地帯ですから、瀬戸内というのは基本的に工場群です。尾道の海が綺麗と言っても、基本的には工場群で埋められていて、工場のない田舎には綺麗なところもあるんですけれど、岩国は工場群のひとつです。ただそうは言っても泳げる海もありますが、とにかく近いのは川で、川ではほぼ毎日泳いでいました。

錦帯橋近くで遊ぶ小さい頃の
窪田氏
(C)窪田建築アトリエ

東京の川とは違って綺麗なのでしょうね。

最高に綺麗で、もちろん魚も当たり前にいました。「錦帯橋」は観光地なので、あそこには皆バスで来ますから、普通そういうところに生活者は出入りしないですよね。けれど小さな頃から「錦帯橋」の真下で泳いだりもしていました。日常的にはもっと近いところで泳いでいましたけれど。

小さい頃に好きだったことは。

やはりプラモデルだったり、ものをつくったりするのは大好きでしたね。

建築家の道へ進むきっかけのようなことは。

「錦帯橋」はやはり僕の中では建築家としての原点です。日常だし、特殊なものではないんです。毎日そこに存在していますから、いつも目の前にあります。デザイン的なことは考えておらず、単なる現場で製造した橋としてああいう形になっているんです。デザイン操作をしていないのに最高に美しく、構造体もすごく綺麗なんです。そのつくっているものが構造物なのに美しくて、なおかつ周辺の状況との絡み方といいますか、相対の美しさをつくり出しているんです。ひとつの構造物の結果で街全体が美しくなっていくことのプロトタイプの中に住んでいたというのがベースにありました。しかし建築に関していうと日本では中学校でも高校でも建築を教えるということは1回もないじゃないですか。だから何も興味がなく、実は大学もおやじから「建築学科へ行け」と言われたんです(笑)。おやじは台湾からの引揚げ者で、引き揚げて来たときには食うことに非常に苦労をしていて、息子は何でもいいから建築の世界に行けば何とか食えるだろうと思っていたみたいです。

お父様は建築に関する仕事をされていたのですか。

おやじは製紙工場の中で電話の交換機の保守点検をしていました。

建築の道へ進んだのはお父様からのアドバイスだったのですね。

そうです。おやじも電気系でしたし、僕自身も小さい頃からラジオとか電気製品をつくっていて、電気科に行くつもりだったのに、おやじが「電気科に行くな。建築学科に行け」と。電気はダメだと言っていて、ブラックボックス化していく電気の世界で、そこに関われるのはごくごく少数の人で、そこに行くよりも、建築であれば現場でも事務でもいろいろな職種があって、食えるだろうと思っていたようです。

お父様には先見の明があったのですね。

どうですかね(笑)。


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