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品番がわからない場合


建築より車好きだった若き日

建築より車好きだった若き日
建築嫌いの青年時代

大学に日本大学を選ばれたのは何か理由があるのですか。

おやじも建築の世界がわからないので、高校の進学指導のときに「建築学科に行こうと思います。どこに行ったらいいですか」と聞いたんです(笑)。そうしたら先生も「僕にもわからないけれど、岩国の市役所には日本大学の建築学科出身の人がいっぱいいるらしいから、あそこに行ったらいいんじゃないの」と言われました(笑)。日本大学の学生の数が多いので当然そうなるんですけどね(笑)。

大学時代の窪田氏
(C)窪田建築アトリエ

日本大学でも福島というのはどういうことなのですか。東京へ行きたいとは思わなかったのですか。

僕は逆だったんです。東京には何となく行きたくないと思ったんです。縁のある人が誰もいないので。僕が1年生に入ったときに3年生に親戚の方が福島にひとり行っていたんです。あそこに行ったら住むところも何とかなるだろうということで、それならそうしようかと(笑)。

そのときの先生で僕らが知っていそうな方はいましたか。

ひとりだけ谷川(正己)先生というフランク・ロイド・ライトの研究者がいらして、交流があったわけではないですけれど、近代建築史でフランク・ロイド・ライトのことを教えていらっしゃいました。

授業を受けられたことはあるのですか。

習いましたし、ちょうど僕が2年のときに学内で谷川先生のヨーロッパ建築ツアーがありました。本当は皆4年の頃に卒業旅行で行くんで、僕は行くつもりがなかったんです。それもおやじで、建築学科に行かせたけれど、自分は教えることもできないという罪滅ぼしで、それに行ってはどうかと(笑)。何十人も参加者がいましたけど、2年生は僕ひとりでした。そのヨーロッパで谷川先生とご一緒して、やはり面白かったですね。

コルビュジエ作品など有名建築をご覧になりましたか。

3週間位ありまして延々見ました(笑)。

そのときの印象はどうでしたか。

僕はどちらかというとピンとくるものがありませんでした。教会などはわかりやすいんですけれど、逆に現代建築がわかりにくくて、コルビュジエの「サヴォア邸」を見に行って、屋根がないな、何とも不思議な世界だなみたいな感じでした(笑)。

サヴォア邸

大学の同期で建築家になっている方はいますか。

ひとりもいないですね。大学の先生にもそういう方はいらっしゃらなかったですし、建築家を目指す人もいなかったですし、大学の最初の授業でも、はっきり言われるんです。「我が校は建築技術者を育てる学校で、我が校の誇っているところは学校を出てから現場などどこに行っても、使いものになると言われることだ」と言われるわけです(笑)。実は僕もその頃にはそう思っているわけですし(笑)、おやじからも「技術者になれ」と言われていますからね。

今はまったくその対極ですね(笑)。

本当にそうです(笑)。その頃は指導者もいないですし、憧れる人もいないですし、建築が面白いと説いてくれる人もいませんでした。

そうすると卒業されてからの軌跡はどうなっているのですか。

卒業するときも、4年間それでやりましたから、どうしようかなという感じですよね。まったく簡単な話なんです。子どもの頃からものをつくることが大好きでしたけれど、車も非常に好きで、車の図面のようなものを延々描いている時期があって、多分おやじはそれを見て、設計屋に向いていると思ったんですね。それから大学に行ったんですけれど、建築は面白くないし、わからないし、大学時代も実は車屋にずっと通っていました。エンジンをおろしたり、バラしたりしていて、僕はそっちで就職しようと思っていたんです。大学が終わって、基本的に建築学科ですから、そういう就職口はないじゃないですか。どこか車の関係に入ろうと思っていたときに、おやじから「とにかく就職してくれ、何でもいいから技術を身に付けて、飯が食えるようになれ」と、それだけなんです。体力にあまり自信がなかったので、現場はちょっとと言ったら、「お前は設計に向いているだろうから」と、広島では大手の設計事務所に僕を無理矢理入れたんです(笑)。戦争を乗り越えた人たちの関係性は今とはちょっと違うんでしょう。戦後の状況で動いている人間ですから、広島にも戦後騒乱期に動いた関係者がいて、僕は1度も会ったことのない人なんですけれど、突然「ちょっと広島に行こう」とその人に会いに行き、「息子を設計の会社に何とかしてほしい」と言ったら、向こうも「何とかしましょう」と言って、すぐに広島の設計事務所に連れて行かれて、そのまま僕はそこに入ってしまいました(笑)。

それから設計をされていたのですか。

そうですね。それからは普通に設計をやっていました。そこは官庁の仕事が100%で、固い仕事ばかりでした。ただ淡々と図面を引いていました。

どのくらいやっていたのですか。

3年くらいですね。就職して図面を描きましたけれど、建築で抑えるべきところが何もわからないので、その事務所にいた先輩をつかまえて、「これを教えてくれ。あれを教えてくれ」と聞いて、学校みたいでした(笑)。やったことは大きいもの、小さいものを含めて、今考えれば本当に勉強になりました。官庁の仕事ばかりなので、季節労働者みたいなものです。ある時期は寝られないくらい図面を描かないといけない。ある時期には何もないので、延々ディテール集を写し続けるということをやっていました。


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