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品番がわからない場合


建築の名門コースを歩む

建築の名門コースを歩む
巧みな松永流ハーバードGSD攻略の秘訣

ハーバードGSD(ハーバード大学デザイン学部大学院)には行ったのはどのようなタイミングですか。

芦原事務所で働いていましたが、そのままいるつもりはありませんでした。というのは当時も建築学科を出たら、そのまま大学院に進むというのがひとつの風潮でした。だから僕の同級生のほとんどは、伊東や大宇根のようにアトリエ事務所に行く人以外は、大学院に行ったわけ。僕らは独立しようと思ってアトリエ事務所に行くわけですから、大事務所に行こうという気持ちもないし、大学院で無駄な時間を費やすのももったいないという感じでした。でも僕にも野心があったから、芦原さんのところにいるうちに、芦原さんに習って、僕もハーバードに行かなければダメだと思ったんです。ハーバードを受けるのには、審査のためにポートフォリオ、つまり作品集を作って送らなければならないんです。あとは東京で行われるTOEFLという英語の試験があって、英会話の学校にも通いました。芦原事務所は結構給料が良くて、5年間位で金が貯まったんです。ハーバードに1年でマスターが取得できるコースがあって、これで行こうと思いました。芦原さんに話したら、「行って来い。行きの飛行機代は出してやる」と。それは罠でね。また戻って来いよというのがあるわけ(笑)。

ハーバードGSD時代

松永さんはハーバードに行くのにどこで英語を勉強したんだろうと思っていましたが、日本で英会話を習っていたんですね。それでも行った当初の授業は難しいでしょう。

全然ダメよ(笑)。だけど後で考えてみると、外国人ばかりが来てるわけで、皆下手なのよ(笑)。僕らはお絵かきをすればいいんだから、言葉のコミュニケーションはいいんですよ。

なるほど!ハーバードのGSDはお金がかかるでしょう。

かかります。当時200万円位でした。

それは自分で貯めたお金ですか。

そうです。コンペをやったりもしましたね(笑)。

それは偉いですね。実際に行っていたのは1年間ですか。

9か月でマスターを取ったの。9月に行って、6月に卒業してしまいました。マスター・オブ・アーキテクチュアです(笑)。今は最低1年半かかるし、1,000万円位かかるでしょう。

うぇーっ!いい時期に決心して、実践しましたね。

ちょうど芦原事務所にインターンで来ていたインドの女の子が、アメリカの大学を受けると言っていて、ハーバードの受験の資料を私はもういらないからと一式くれたんです。

ハーバードでの先生はいますか。

当時のハーバードのGSDの教育では、スタジオ制といって、先生のスタジオを取るんですが、毎年変わって、選べるんです。2期制で9月からクリスマスまでが前期で、後期がその後。前期は強制的に割り当てられちゃうんです。僕らのコースがなぜ9か月でマスターがもらえるかというと、東大のカリキュラムは設計とか構造とかものすごく単位数が多かったものだから、準マスター位の能力があると認めてくれて、そういう人には9か月でいいという特別クラスがあったんです。そのクラスには全世界から集まる中で20人はいませんでしたが、常勤の先生が教えるコースで、集合住宅の設計でした。2期目は選べるんだけど、それも先生が選ぶから、なかなかこっちが望んだからといっても行けるわけでもありません。僕は前期の時に高(俊民)さんと親しくなって、しょっちゅう遊んでいたら、彼のまわりにいる華僑の友達ともめちゃくちゃ仲良くなって、いつも中国人の友達と遊び歩いていました(笑)。そうしたら2期目になった時に「丹下が来るぜ」と(笑)。「丹下先生には学んだから、違う先生から学びたい」と言ったら、「いや、通訳としてお前がいる。われわれのグループに入れ」と無理矢理入れられました。それで丹下先生のスタジオに入ることになって、丹下さんから2回教わることになりました(笑)。

高俊民氏

丹下健三氏(左から4人目)とチーム・アジア

丹下さんに2度教えてもらった人は稀有!

このグループは自分たちを"チーム・アジア"と呼んでアジアのマフィアを目指し、香港で法人登記までしました。リーダー格の台湾出身のウィン・チャオはめちゃくちゃ弁舌の立つ人で、卒業後はディズニー本社で副社長になり、香港ディズニーランドなどを手掛けました。まあ、高さんと僕は東京に戻り、他の人たちも各地に散らばっていますが、結束は固く今でも家族ぐるみで付き合っています。彼らは華僑ですから世界中どこでもビジネスができるし、スケール感が日本人とは違います。僕の母方の祖父は伊豆の中学を出てすぐアメリカに渡り、ビジネスを成功させた男ですから、僕もそのDNAを継いでいるかもしれません。チーム・アジアの人たちは1997年のGSDレユニオン(会議)にもボストンで集まり、最近では香港・マカオで集まりました。

チーム・アジア

当時、ハーバードに有名な建築はすでに建っていましたか。

コルビジュエの「カーペンター視覚芸術センター」はありました。

カーペンター視覚芸術センター

ハークネス・コモンズ

ガンド・ホール

ロビンソン・ホール

TAC

グロピウスの「ハークネス・コモンズ」もありましたか。

当然ありました。僕はその向かいにあったクラシックな「パーキンス・ホール」に住んでいました。

ジョン・アンドリュースの「ガンド・ホール」はどうですか。

確か工事中だったと思います。ハーバードのキャンパスには他にも色々な校舎があって、講評会で使いました。われわれの校舎は「ロビンソン・ホール」でした。階高が高いので学生が材木で中2階を手作りしていました。

ハーバードとMIT(マサチューセッツ工科大学)には色々な建築があって、行くと楽しいですね。

コ・レジストレーションと言って、ハーバードの学生はMITの授業も取れるんです。お互いに単位互換になっていて、僕は当時からリージョナル・デザインに関心があり、発展途上国の都市開発というようなジョン・ターナーの授業を取りました。

アメリカで就職もしているのですね。

当時はビザが延長できたわけ。学生ビザで入って、その後学んだことに関連するもののトレーニングとして就職先ができたら、いた期間の倍位まではビザを延長してあげますという制度があって、じゃあ延長しようと思って、色々探したんです。TACと言ってグロピウスがつくった皆が行きたがる事務所だったんだけど、そこに知り合いの山田さんという日本人がいて、ユーゴスラビアの仕事が入ったから一緒にやろうと声が掛かって、幸いそこに就職ができました。

TACに就職なんて素晴らしい!実際にユーゴスラビアの仕事を担当したのですか。

やりました。後に現場を見に行きました。現在ではスロヴェニアになっているところで、世界銀行の融資で5,000人収容の大リゾートでしたが、今でも人気があると、以前谷中の車屋で一緒に飲んだ駐日大使が言っていました。

TACにはどれ位いたのですか。

結局1年半位いたかな。1972年に卒業して、1973年の夏位までいたのよ。家の女房が音大を卒業したんで、アメリカで結婚してセルトの設計したハーバードの寮の「ピーボディ・テラス」に一緒に暮らしていました。このままこうしていても仕方がないと思っていたところに、華僑の友達が東京に大きい仕事があるからと、ごそっと丹下さんに引っ張られて、丹下事務所に就職していました。高さんから「仕事が入って、今度独立するから、松永も早く帰って来い」と言われて、帰って来たけれど、芦原さんへの義理もあるから、熱りが冷めた頃に合流するからという話になりました(笑)。

ピーボディ・テラス(前に立つのは奥様)

柴田知彦氏

飛行機代を出してもらったので(笑)、芦原さんのところに一旦戻ったのですね。

借りは返さないと(笑)。柴田(知彦)と高さんで柴田・高設計事務所を始めていて、「早く来い、早く来い」と言われていたんだけど、芦原さんのところが一段落してからと一仕事終わらせたので、1974年に参加して1978年までの4年位いました。


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