- 1.建築家紹介
- 2.建築的早熟性に溢れた少年時代
- 3.建築の名門コースを歩む
- 4.建築デザインの作風
- 5.集合住宅のニュー・タイポロジーをつくり続ける
- 6.新しいマルチ企業集団を目指して
- 7.将来への展望
- 8.特別編:ハモニカ横丁でインタビュー後編を続ける
- 9.建築作品ギャラリー
特別編:ハモニカ横丁でインタビュー後編を続ける
特別編:ハモニカ横丁でインタビュー後編を続ける
西荻窪建築フォーラムを継続した話
ハモニカの店は賑やかなところが多いですが、エプロンなら落ち着いて話すのにはいいでしょう。
料理もお酒もうまいし!
そこにしましょう!
最初はビールで乾杯!お疲れ様!
乾杯!お店の人に写真撮ってもらいましょう!僕のFacebookに出します。
実は名ばかりでいい加減な飲み会である「西荻窪建築フォーラム」はいつ頃から始まったのですか。確か松永さんと亡くなった藤江(秀一)さんが花小金井界隈で飲んでいたのを、六角(鬼丈)さんや僕が住んでいた西荻窪にもってきて、皆を入れて始めたような気がしているのですが…。
はい。1989年当時僕は小平に住んでいて、磯崎事務所の藤江さんから持ち掛けられた「バルセロナ・オリンピック・スタジアム(サン・ジョルディ・パレス)」の工事現場見学ツアーのコンダクターの仕事が無事終わった頃、彼の自宅が花小金井の滝山団地近くにあることを知って、やはり近所に住んでいる写真家の大橋富夫さんや、故永田昌民さん、彰国社の田尻裕彦さん、それから亡くなった野崎正之さんの夫人のみどりさんを誘って、焼き鳥屋に集まってスペインやフランスの話をしたのが発端でした。その後、藤江さんは横浜に引っ越し、僕も武蔵小金井に引っ越したので、西荻窪でやるようになったんです。
なるほど。常連は中央線沿線に住んでいる建築家でしたよね。槇文彦氏に「平和な時代の野武士たち」と呼ばれた、長谷川逸子、伊東豊雄、松永安光、六角鬼丈、早川邦彦(以上同年)、藤江秀一らと建築評論家の植田実、幹事をやらされた淵上が基本メンバーでした。後から石井和紘、山本理顕、中村研一、堀川秀夫らが加わり、以上が固定メンバーとなりました。
西荻窪のいろいろな店で飲んだね。店のオヤジに怒られたり、口喧嘩したり。まあ西荻窪ばかりでなく荻窪や吉祥寺、時には渋谷でもやりました。また吉祥寺に淵上さんの自宅ができた時はみんなで見に行ったり、終電に間に合わなくなった時に六角さんの自宅(有名な「クレバスの家」)で、徹夜で飲んだり大騒ぎだった(笑)。
あの時はすごかったですよ!玄関の上がり框の上に座り込んで宴を張った感じで、パースペクティブの効いたクレバス(階段)が目の前にありました。僕は初めて夜中に建築見学をしました。しかし六角さんはスゴイ人です。夜中に奥さんにツマミをつくらせたんですよ!僕だったら離婚されてます!
アハハハ!六角さんは豪傑ですよ(笑)!
名ばかりの「西荻窪建築フォーラム」は、建築界へ言い放題の意見や提言が出て、これだけのメンバーが揃っているから記録にとって出版しようという話も一時は出ましたが、言い放題言えなくなるし、出版は大変ということで沙汰止みとなりました。僕は編集者だし、やらされるのではないかとビクビクしていたんです!やめて良かったです!
色々なことがありました。しかし2000年代に入り皆忙しくなって、2004年のクリスマスには藤江さんはもとよりシーラカンスの小嶋(一浩)夫妻や赤松(佳珠子)さんたちも集まりものすごく盛り上がったけれど、その後は僕の事務所も吉祥寺に移り、結構こじんまりした飲み会を最近まで続けて来ました。藤江さんや小嶋さんは最近亡くなり、寂しくなったけれど、まぁ今後はここハモニカ横丁あたりで手塚一郎さんたちとやるのも一興ですね。
そうですね。今日はハモニカ横丁まで来ていただきお疲れ様でした。
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