建築的早熟性に溢れた少年時代
建築的早熟性に溢れた少年時代
高校1年生で『新建築』を愛読していた建築オタク
松永さんの生まれが東京なのは知っていますが、東京のどこですか。
本郷です。本郷の西片町に碁盤の目状のお屋敷街があって、その一角を静岡県富士市で貴族院議員をやっていた曽祖父が東京の別宅として持っていました。そこに両親が結婚して住んで、生まれたのが僕です。この屋敷は保岡勝也という建築家の設計で、その図面は文京ふるさと歴史館に寄贈しました。
東大に行くべくして、そこに生まれたのですね(笑)。そういうところだと森のような自然環境はありましたか。
西片町にはそういう環境はなかったです。僕は昭和16年生まれですが、18年になって空襲が始まるだろうというんで、西荻窪の松庵に疎開したわけ。それくらいから幼年時代が始まりました。母が自由学園出身で、その頃の親友の夫君が建築家の森田茂介さんでした。彼が設計して久我山に建てた自宅で生活団という幼児教育をしていたので、そこに通いました。自由学園の機関誌が『婦人之友』で、婦人之友社からカメラマンがやってきて撮った写真がその雑誌に載りました。茂介さんは土浦亀城の弟子で、モダニズムのかっこいい住宅でした。後に法政大学で長く教えていました。森田家と母の実家が親戚でもあったのです。
そうすると近くに井の頭公園などもあって、幼少時代には遊べたわけですね。
もちろん。西荻窪に住んでいて、吉祥寺まで電車で明星学園に通っていましたから、行き帰りに井の頭公園の池を渡っていました。
この辺りじゃないですか。中学校は。
明星学園はユニークな教育で有名な学校だったので(笑)、5年生の時にこんなことをやっていてはダメだと地元の公立の高井戸第四小学校に転校させられました。その後中学校も地元の宮前中学校に通いました。すぐ側に今では名門とされている都立西高校があって、当時はそんなこと全然知らないで入りました。
建築家になるきっかけとなったことは何かありますか。
割合子供の時から細かいことが大好きでした。小学校の時に弁当の絵を描いて、米を一粒ずつ全部描いたことがありました(笑)。
それは建築家への資質のひとつかもしれませんね。では建築を意識したのは。
中学校の図工の時間に家の模型を作るというのがあって、徹夜で作ったりしてね(笑)。とにかくそういうことが大好きでした。家でとっていた『婦人之友』に、ライトが設計した「タリアセン・ウエスト」などの作品がグラビアで載っていて、それを見て、いいなと思っていました。
それはいくつの頃ですか。
中学校の頃だね。高校に入った頃にはこういう仕事をやりたいと思っていました。当時は丹下(健三)さんがヒーローで、旧東京都庁ができたばかりの時には親父と一緒に東京都庁の屋上に昇ったりもしました(笑)。そっちの道に一筋で、高校1年生の時には『新建築』もとっていました。
すごく早熟ですね!建築家になるというのはかなり早くから決めていたのですね。
スポーツ選手がスポーツをやりたがるのと同じです(笑)。
東大に入ったのも丹下さんがいたからですか。
そうです。ただ音楽も好きで入れ上げて一浪してるんです(笑)。
どんなジャンルの音楽ですか。
ポピュラーなものすべて。
東大ではどちらの研究室だったのですか。
学部では研究室はなくて、卒論を書く4年生の後半に研究室を選ぶんだけど、都市計画をやりたくて、当時は講座制だったので教授が高山英華さんで助教授が川上秀光さんでした。高山さんはめちゃくちゃ授業が面白い人でした。当然丹下さんに憧れて入ったんだから、丹下さんのところに行くはずでした。ただ丹下研究室はスノッブな人ばかりで(笑)、好きになれませんでした。丹下さんもキザなところがあって(笑)、タイプじゃなかったんです。
へー、そうだったんですか!当時の丹下研究室にはどのような人がいましたか。
丹下さんのところに行った中で一番有名になったのは、月尾(嘉男)です。彼はキレる人だったね。皆が丹下研究室に行くと思っていたけど、そうでもなくて、伊東(豊雄)も吉武(泰水)さんのところでした。
他に同級生には。
前川國男事務所に入って、JIA会長になった大宇根(弘司)ですね。僕の学年の前の年も後の年も割合大組織、ゼネコンや大事務所に行く人が多かったんだけど、僕たちの年は40名しかいないのに、なぜかその内の10数人がアトリエ事務所に行きました。
松永さん、伊東さん、大宇根さん…。
それから長谷川(紘)が鬼頭(梓)事務所に行きました。その他にもアトリエ事務所に行きたがる人が多かったんです。
松永さんは芦原(義信)さんのところに入ったわけですね。
そうです。本当は吉村(順三)さんのところに行きたかったんです(笑)。吉村さんは何となく信頼できそうだと思って、作品を持って行ったんだけど、「うちはもう満杯だよ」と体よく断られてしまいました(笑)。当時吉村さんの事務所は六本木にあって、しょんぼりと六本木を歩いていたら、東大の非常勤で来ていた進来廉さんのパートナーに面白い人がいて、その人から「どうしたの」と声を掛けられたんです。「吉村さんのところで蹴られて、どうしようかと思っていたんですよ」と言ったら(笑)、「それならちょうど芦原さんのところで、誰かいい人がいないかと探していて、入社試験があるみたいだから受けてみたら」と言われました。それで芦原事務所に行きました。芦原さんはもちろん知っていたし、作品もシャープで悪くないと思っていましたよ。
芦原さんも東大出身ですが、東大に研究室はなかったのですか。
その頃は法政大学の先生でした。
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