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品番がわからない場合


初めての建築事務所経験

初めての建築事務所経験
共に創成期の塚本研究室と手塚建築研究所を体験

おふたりのお生まれについて聞かせてください。武井さんは東京でしたね。東京のどちらですか。

武井氏:僕の生まれは品川ですが、しばらくして神奈川の横浜に移りました。

建築を志したきっかけは。

武井氏:あまり絵を描くのは得意じゃなかったんですが、工作は好きでした。色々な大きさの箱やモノを取って置いてはそれを解体し、組み立て直したりして、別の工作物を作っていました。今考えると、素材やモノの成り立ちをシンプルな形から読み解いて、全く別の新しい立体物を作るのを楽しんでいたのかもしれません。

それが段々と建築の方向へ転化されていったということですね。

武井氏:漠然と理系に進むのがいいだろうとは思っていたのですが、モノづくりにも興味があったので、理系で立体的にモノをつくる職業は何かを考えているうちに、建築家を意識するようになりました。

子供時代に建築とか建築家という言葉を意識したことはありますか。

武井氏:ないですね。ただチラシに入ってくる住宅のプランを見るのは好きでした。大学の時には雑誌の懸賞に出していました。僕が建築に興味を示したからか、確かあの頃、上野駅の駅ビルの設計を磯崎(新)さんが手掛けていて、磯崎さんの作品集だったかポスターだったか、国鉄に勤めていた父が家に持って来てくれました。そのピンク色のイラストレーションが印象に残っています。

鍋島さんは神奈川のどこですか。

鍋島氏:平塚です。中心街からバスで40分位のところで、田園風景の広がるのどかな場所に住んでいました。

建築を意識したのはいつ頃ですか。

鍋島氏:建築単体ではないんですが、西新宿の再開発で超高層ビルが一斉に建ち上がってきた時に、整頓された街の風景を初めて見て、田舎者の私はびっくりしてしまって、そういう美しく整理された街並みに、憧れをもったのがきっかけです。それ以降は電柱やガードレールといったものに違和感を覚え、どうにかならないかなと意識し始めたのが中学、高校の頃でした。この先、建築というよりは都市計画のようなものを学んでいくのかなと思っていました。

鍋島さんは実証的に見たという体験から、武井さんはものづくりがうまいことから段々ということですね。かつてのインタビューでは丹下(健三)さんの建築を見てとか、安藤(忠雄)さんの建築を見てという建築家が多くいました。都会出身者は建築に目覚めるのが早くて、地方出身者はものづくりが得意だったことからという場合が多かったように思います。では大学で建築学科に入って、自分の思っていたコースのイメージと違ったところはありませんでしたか。

武井氏:僕は建築が学べればどこでも良かったというと語弊がありますが、建築学科に抱く特別なイメージはありませんでした。ただ大学の校舎が湘南にありましたから、都会にある建築の最新情報から離れてしまいました。わざわざ遠くに建築を学びに行ったわけです(笑)。でも結果的に流動的な建築の情報から距離を保っていたことで、集中して建築に没頭することができました。

丹下健三氏

安藤忠雄氏

武井さんの大学時代
(C)TNA

鍋島さんの大学時代
(前列左から2番目が鍋島さん)
(C)TNA

ピュアな気持ちでできるかもしれませんね。

武井氏:そうですね。ただ建築の情報には本当に疎くて、展覧会などにはあまり行きませんでしたし、学生コンペにもほとんど応募していません。

鍋島さんは逆に都会に出てきたのでしょう。

鍋島氏:いいえ。東京を通り越して千葉にある大学に一人暮らしをしながら通っていました。宮脇壇さんや中村好文さんが教鞭をとられていた居住空間デザインコースの4期生になります。始まったばかりのコースでようやく4学年が揃った時期でした。私は都市計画をやりたいと思っていましたから、「居住」という分野は少し違うんじゃないかと思っていたんですが、宮脇先生たちは「居住というのは住まいではなくて、生活する場すべてが居住なんだ」とおっしゃられていて、それは実は私が学びたかったことかもしれないと思いました。

なるほど。やはり先生はうまいことを言いますね。大学を卒業してから武井さんは研究生として東工大に行かれています。それはもっとブラッシュアップしたいということからですか。

武井氏:随分と建築の中心から離れ過ぎていたこともあって(笑)、確かに自ら学ぶ環境という意味では良かったのですが、もっと違う世界があるんじゃないかという、自分の中で何か物足りなさがあったんです。ちょうど卒業の頃は、バブルが崩壊した後で、建築にあまり元気がない時で、たまたま本屋に行って、『住宅特集』を立ち読みするわけですけれど、同じような建築ばかりで正直あまり面白くなかった。ところがあるとき、塚本(由晴)さんの「アニ・ハウス」「草千里公衆トイレ」の模型写真を見て、衝撃を受けました。東工大に行っている友人から「これから塚本研究室ができるよ」と聞いて早速連絡をとりました。

塚本由晴氏

アニ・ハウス (C)アトリエ・ワン

草千里公衆トイレ (C)アトリエ・ワン

ちょうど研究室ができる時だったのですか。

武井氏:まだ塚本さんがドクターで坂本(一成)研究室にいらっしゃる時に訪ねて行ったんです。

塚本研究室の創成期の時ですね。

武井氏:僕は研究生で入ったんですが、塚本さんを含めて全員で4名でした。随分と人口密度が低い贅沢な研究室だったと思います(笑)。

塚本さんの「アニ・ハウス」に刺激を受けたことがきっかけだったのですね。

武井氏:「アニ・ハウス」の敷地は一般的な住宅街にあるのですが、あのセンター配置は今までになかった建ち方でした。建物を北に寄せて南に庭を取るとか、中庭にするとか、そういう今までの建物の配置ではなく、庭が街と連続しているこの伸びやかな風景はとても魅力的でした。

鍋島さんは手塚建築研究所を選ばれたのはどういう理由からですか。

鍋島氏:大学の居住空間デザインコースでは、人の居る場として、人間スケールから建築を考えることを学びました。居心地の良さを追求した家具や照明、小さいものを都市でも同じ水準で考えていくことを教えられました。大学3年の頃、GA HOUSE プロジェクト展で手塚(貴晴+由比)さんが「花見の家」という作品を展示されていました。ご実家の庭に植わっている大きな桜を見るためだけのシンプルな住まいです。それはご自分たちだけのため空間でなく、桜の木の根を保存するような基礎になっていて、桜の木のための建築でもありました。桜を取り巻くすべてのものの間で良い関係が出来上がっている、建築自身が家具のように繊細な心遣いで考えられていることに興味が湧きました。

手塚貴晴氏(左)と手塚由比氏(右)

花見の家 (C)手塚建築研究所

彼らのプロジェクトに共鳴されたのですね。アプライしてすぐに入ることはできましたか。

鍋島氏:いいえ。その頃まで研究室の一角でお仕事をされていたそうで、春からオフィスを構えるという時期だったのです。手塚さんたちもまだ仕事が多くはないということで、5か月待ちました。

手塚建築研究所も創成期だったのですね。

鍋島氏:入社してすぐ、2件担当させていただきました。

おふたりの先生である塚本さんにも手塚さんにも僕はかつてインタビューをしていますから、二代に渡ってのインタビューになります(笑)。武井さんが塚本研究室に入ったとき、貝島(桃代)さんは。

武井氏:まだ貝島さんは坂本研究室でした。でも、アトリエ・ワンのプロジェクトについては、塚本研にいらっしゃって、打合せをしていました。

貝島桃代氏

アトリエ・ワンはもうできていたのですか。

武井氏:その頃から作品を発表する時には塚本研究室+アトリエ・ワンでした。

その後、手塚建築研究所に行かれたのですね。それはどうしてですか。鍋島さんがいらしたからですか(笑)。

武井氏:いえいえ(笑)。このままずっと研究生のまま塚本さんにお世話になっていても良くないと思って相談したところ、「手塚さんのところが良いのではないか」と。実務を学ぶのであればリチャード・ロジャースのところにいた手塚さんが一番だろうと推してくださったんです。

手塚建築研究所時代

リチャード・ロジャース

そうしたらそこに鍋島さんがいらしたわけですね。

武井氏:そうです。実は先輩です(笑)。

武井さんと鍋島さんもご夫妻のユニットですが、おふたりの先生である手塚さん、塚本さんもご夫妻のユニットです。ユニットのメリットを十分にわかっていて、独立されたと思います。

武井氏:メリットが何かということを具体的に考えたことはないですけれども…。

コミュニケーションという面だと事務所だけではなく、家でもハッと気付いたことを伝えることができます。それはメリットだと思います。家でも設計の話が出たりするのではないですか。

鍋島氏:そうですね。


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