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品番がわからない場合


建築家に向けて

建築家に向けて
京都工芸繊維大学で建築家の存在を知る

木下さんと会うのは初めてですね。

淵上さんは吉祥寺で飲み会をされているじゃないですか。その飲み会にFacebook友達の香月(真大)さんから3回位誘われたんですけれど、すべてタイミングが合わなくて参加できませんでした。

香月真大氏

そうでしたか。僕は初対面の人にインタビューするのは今回が初めてです。色々な推測を働かしていてたんですけれど、ホームページの写真を見て、木下さんはサッカーの中村俊輔に似ていると思っていました。

初めて言われました(笑)。

実際にお会いして見るとちょっと違うかもしれませんね(笑)。ではよろしくお願いします。

こちらこそよろしくお願いします。

TOTOギャラリー・間の25周年記念展の会場デザインは木下さんだったのですね。

岸(和郎)先生が運営委員会のひとりで、僕は教え子なので、「大枠だけ決めるからあとは任せる!」ということでした(笑)。それで特に中庭でやっていた幕を張って、文字を流すという会場デザインをやりました。他はほとんどデザインが決まっていたのですが、そこだけはかなり自由に考えさせてもらいました。

ギャラリー・間の25周年展
撮影:Nacasa & Partners Inc.

岸和郎氏

あの庭は格好良かったので印象に残っています。

ありがとうございます。もしかしたらあの時にすれ違っていたかもしれませんね(笑)。

木下さんは滋賀県生まれですね。

そうです。滋賀県の甲賀市というところです。

えっ!忍者の子孫ですか。

いえいえ。普通に農民です(笑)。

そうすると小さい頃から忍者の村などは知っていたでしょう。そういう遊びもしていたのですか。

忍者村として残っているところは僕の生まれた町からは少し離れていて、遊びに行ったことはありますけれど、普段からそういう遊びまではしていませんでした。むしろ小さい頃はまわりが田んぼばかりのところだったので、ザリガニを取ったりしていましたね(笑)。

小さい頃の写真
提供:木下昌大建築設計事務所

それは僕と同じですね(笑)。その頃建築家への道に進むきっかけとなるようなことはありませんでしたか。

大学を選ぶまでは建築家という職業すら知りませんでした。大工しか知りませんでした(笑)。未だに僕の祖母は、僕が大工的なことをやっていると思っています(笑)。ただ小さなころから、絵を描いたりとか、ものを作ったりすることは好きだったので、大学に進学する時に何をしようかと考える際に、漠然とその好きなものについて考え始めました。

そうすると高校の終わりの頃ですね。

その時もよく建築というのがわかってなくて、むしろ身近にあった電化製品などをデザインして形として残す人になりたいと思っていました。自分がつくったものが、自分が死んだ後も残るようなものがいいなと思って、そういうことができるところを探したんです。その時に職業に関する本で、こういうのはインダストリアル・デザイナーというんだと知りました(笑)。当時、工業デザインの学科があるのは、全国の国公立で千葉大学と京都工芸繊維大学と九州芸術工科大学の3つでした。それで京都工芸繊維大学が近かったので行くことにしました。ですからもともとは工業デザインのほうに行くつもりでした。

そうでしたか。

京都工芸繊維大学では、今は呼び名が変わっているんですけれど、造形工学科という名のもとで建築もその他のデザイン全般も1年間は一緒くたに色々な課題をやって、2年目にコースを選択するんです。その1年間で建築家という存在を知りました(笑)。絵は得意だと思っていたのが、グラフィック・デザイナーを真剣に目指している同級生に比べると、全然負けていて(笑)、これはかなわないなと思いました。一方で、建築というのは論理的に色々組み上げるもので、そっちなら勝負できるんじゃないかと思いました。

大学時代の写真
提供:木下昌大建築設計事務所

絵が判断基準になったんですね。

本当に変わった大学で1年目に、FABER-CASTELLのすごく高い色鉛筆を買って、その色鉛筆と紙を持って、近くの植物園や鴨川の河原で絵を描いたりするんです。大学生になってこんなことしていていいのかなと思いながら(笑)…。それからストロー・ストラクチュアといって、ストローとテグスでトラスをつくって立体をつくるというのもありました。建築にいくベースになるものと、グラフィック・デザインや工業デザインなんかに進むベースになるような課題が色々あるんです。それらをやっていく中で、どうも普通に絵を描いているよりも、構築していくほうが面白いと思ったんです。ストロー・ストラクチュアの講評の時には、「君は建築を目指しているの」と言われて、「あっ、そうなんだ。そっちのほうが向いているんだ」と思って、建築のほうに進んだという感じです。

工業デザインを目指して京都工芸繊維大学に行ったことで建築家の道が開けたんですね。

逆に言うと他の大学に行っていたら、建築家になっていなかったかもしれないです(笑)。

そうですね(笑)。岸さんとはそこで会ったんですね。

そうです。当然、岸先生のことは全然知らなくて、1年生の途中でTOTOの『世界の建築家581人』に載っている先生がうちの大学にいるらしいと(笑)。そんな有名な先生がいたのかと。失礼な話です(笑)。それで行くなら、やっぱりその研究室だと、岸研究室に行きました(笑)。

『世界の建築家581人』

そうすると建築を学んだのは大学では岸さんですね。

建築家というものに初めて触れたのは岸先生でした。そして、関西だったので、公共の施設で見て回るのは大体安藤(忠雄)さんの建物なんです。岸先生が生身の建築家の初体験であり、建築空間の体験の多くは安藤さんでした。空間としてはすごく美しくそして力強く、未だにその体験は僕の身体感覚のベースになっていると思います。ただ一方でその美しいものをつくるために、かなり色々な与件までも削ぎ落としているような気がしていました。なので、それらの与件を削ぎ落とさずに建築をつくることができないのかと考えていました。また、自分が下積みをする設計事務所を選ぶなら、スタイルが確立された建築家のところに行くと、自分もそのスタイルに合わせることになるんじゃないかとも考えていました。

イメージとしてはスタイルがないほうがいいという感じなのですね。

スタイルがないというか、建築家の考えが最終的な建築の形状や空間にダイレクトにつながっているというよりは、その考えをもとにした仕組みが結果的に形になって現れるほうがいいなと思っていて、当時はOMAとかMVRDVとかが好きでした。その頃、どこの事務所に行こうかと思った時に、もう何の本だったかは忘れたのですが、何かの本にシーラカンスとMVRDVの類似点について書かれているのを読みました。

それでシーラカンスを選んだのですか。

シーラカンスはパートナーが複数いて、なおかつ計画的なところから建築をつくっている感じがしました。建築のつくられ方が安藤さんや岸先生とは根本的に違うと思ったんです。それがシーラカンスを選ぼうとした理由です。「どこの事務所に行ったらいいですか」と聞いた時に、岸先生からも「今なら小嶋(一浩)青木(淳)だろう」と言われました。小嶋さんのところはシーラカンスで複数パートナーがいるので一度の事務所経験で複数の建築家から学べて効率がいいんじゃないかと思いました(笑)。

小嶋一浩氏

青木淳氏

シーラカンスから独立したのは。

僕が入った時にはすでにK&Hと分かれていて、C+Aのほうに入ったんです。入った時は、東京事務所では小嶋さん、小泉(雅生)さん、名古屋事務所では伊藤(恭行)さんに宇野(享)さんがパートナーで、その中に東京事務所の新しいパートナーとして赤松(佳珠子)さんが加わったばかりでした。働き出して2年目位に小泉さんが独立するという話になって、たまたま担当していたプロジェクトが小泉さんのプロジェクトだったので、そのまま小泉さんのプロジェクトを担当し、そのプロジェクト終わりにどちらの事務所で続けるかを選べるということになりましたが、どちらも選ばずに独立してしまいました。4年間いて、2年間設計、2年間現場監理でした。現場常駐している間に一級建築士の資格を取り、コツコツと独立の準備もしていました(笑)。


小泉雅生氏


伊藤恭行氏


宇野享氏


赤松佳珠子氏


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