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品番がわからない場合


建築家デビュー

建築家デビュー
最初から大きなコンペに勝ってスタート

事務所は最初からこんなに素晴らしいところだったのですか。

いいえ。担当していた「千葉市美浜文化ホール・保健福祉センター」は現場近くの千葉市内に常駐してやっていました。千葉に住み込んでいたので東京に戻るにあたって、どこにしようかという時に、当時はまだ結婚していなかったんですが、妻から「あなたは田舎者だから、1回本当の都心に住んだほうがいい」と言われて(笑)、南青山にしました。その当時の僕の財力で南青山に部屋を借りるとなると風呂がないんです。近くに銭湯があったので、銭湯に通っていました(笑)。

事務所の外観(上)・内観(下)

千葉市美浜文化ホール
保健福祉センター
撮影:阿野太一

JFEケミカル・ケミカル研究所
撮影:阿野太一

それは大変でしたね(笑)。そうすると住まいと兼用ですか。

そうです。千葉の現場が終わる3か月前位に引っ越して、それから竣工までの間しばらくは南青山から通っていました。

独立して最初の仕事は。

実際には処女作の前に小さな住宅の内装をやっていたんですけれど、実質的な独立して1発目は「JFEケミカル・ケミカル研究所」です。千葉の現場は2月竣工で4月オープンなので、その4月から新しい研究所をつくるプロジェクトがあるというので、知人の推薦で指名コンペに参加させてもらいました。いくつかの大手組織設計事務所が入っていて、取れないかもしれないけれど、チャレンジだけでもさせてもらいたいと。まだ独立していなかったので、形だけでも格好をつけないとダメだと思って、千葉の現場を一緒にやっていた設備計画という設備事務所の人に「一緒にやってほしい」と声を掛けて、構造は新谷(眞人)さんのところ出身の森部(康司)さんに声を掛けました。「研究所だから設備が大事です。だからわれわれは設備を頭にしてやっています」と、唯一株式会社だった設備計画を頭にしたJVにして、コンペに参加して、勝ったんです(笑)。

それはすごいですね!

コンペの時に大きな模型をつくったんですけれど、大きな模型をつくっているのはうちだけでした。民間の指名コンペなので、特に応募要項もなくて、とにかく「これが取れたら人生が変わる!」と必死でした。最後、とある超大手組織設計事務所かわれわれかというところで、大きな模型を持っていって、全力でプレゼンをした僕らを選んでくれたんです。

最初のコンペでこんな大きな仕事を得たというのはすごい自信になったでしょう。

そうですね。逆に言うと独立したてで大変さもよくわかっていませんでした(笑)。

怖いもの知らずですね。

たまたま自分がシーラカンスで担当していた「千葉市美浜文化ホール・保健福祉センター」はもっと大きくて、延床面積が約8,000m2で工事費が約40億円でした。それに比べると半分以下だったんで、できるかなと思ったんです(笑)。

独立当初は仕事がなくて、暇を持て余していたという建築家の話も聞きますが、木下さんは最初に挑戦したコンペで勝ってしまったんですね。

ひとりではできないので、コンペ時に模型をつくってくれた大学院を卒業したばかりの最初のスタッフと大学の同級生、それと半年遅れくらいで合流したもうひとりのスタッフの3人をいきなり雇って、4人でやっていました。

現在はどのように仕事が入ることが多いですか。

基本的には知合いの紹介です。

仕事にバラエティがあって、色々なタイポロジーのものをやっていますね。

多分それは「JFEケミカル・ケミカル研究所」の実績が大きいですね。これをひとつやっているから、住宅以外にも色々できるんじゃないかと思って頼んでくれるんだと思います(笑)。

今もコンペはやっていますか。

最近はなかなか参加できていないですね。シーラカンスのOBと何回かやっているんですけれど、そのうちのひとつが3年位前にあって、1次は通過して、2次のプレゼンで負けています。くまもとアートポリスの「和水町立三加和小・中学校」のプロポーザルだったのですが、野沢正光さんに負けました。結構自信があったんですけれどね(笑)。

でも仕事は多いんでしょう。

今は幸い多いですね。当然減ったりした時期もありました。


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