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品番がわからない場合


物づくりへの芽生え

物づくりへの芽生え
祖父や父の職業から学んだ幼き頃の体験

最初に菅原さんのお生まれから教えてください。

生まれは東京・浅草です。今でも下町に親戚が多く住んでいて、一部の親戚は三社神輿を担ぐエリアに住んでいます。神輿をかつげと言われるんですが、いまだに褌を付けたことはありません(笑)。その後は駒沢と川崎に移り住んで、最終的に調布に至るという流れです。

ずっと東京や東京の近辺ですね。

10歳で駒沢から川崎に移ったんですけれど、それから中高大、大学院まで全部東京で、勤め先もシーラカンス・アソシエイツ、東京でした。すべて生活は東京だったので、僕は川崎のことをあまり知りません。

小さい頃の写真

浅草生まれだと、小さい頃に自然とのふれあいなどはありましたか。

自然のある原体験だと駒沢になるでしょう。近くには駒沢公園や、子供の頃にはまだ畑もあり、芋掘りやザリガニ釣り、昆虫取りや公園の樹木に板を打ち付けて秘密基地を作って遊んでいました。そのような体験をしながらも、東京の都市的な生活と両方の状況で同時に育ってきた感じです。

東京でも駒沢の辺りには自然が残っていたのですね。そういう生活の中で特に記憶に残っていることはありますか。

一番記憶に残っているのは、やはり秘密基地を作った時の体験です。駒沢公園は、色々な人が出入りする場所なのですが、その中でも子供にしか入れないような潜んだ環境が必ずあります。そのような場所を見つけると、勝手に板を打ち付けたりしながら状況をカスタマイズして、自分の場所にしていく体験は、今の建築の原風景になっている気がします。

僕らの子供の頃には野山で遊びましたが、公園でそんなことができたのですね。

逆に言うと僕のまわりには公園にしか自然と呼ばれるようなものはありませんでした。擬似自然ですけれどもね(笑)。

秘密基地を作ったことが建築の道に進む初歩的なきっかけですね。

そうですね。あとは家族の影響がすごく大きかったです。祖父と父の影響なんですけれど、祖父は紙加工の工場を経営していて、幼少期には毎週末祖父のところに通っていました。1枚の紙が折られて、立体的な封筒になっていくのをずっと眺めていました。機械の力強さと、ものが立体化していくプロセス、つくり手の精神を町工場で学びました。

それは浅草ですか。

浅草です。今も叔父が継いでいます。祖父が機械を調整すると、途端にできるもののカタチや大きさが変わっていく。工場での体験は、特別なものでした。あとは、婦人服のメーカーをやっていた父の影響です。個人の小さな会社でしたが、デザイン、設計、制作、納品までしていたので、ものづくりの流れを知らず知らずのうちに身に付けていました。また仕事がら、デパートの集まる華やかな場所に連れて行かれることが多かったです。2~3歳のころのことで僕は覚えていないんですけれど、車から見える銀座の夜景を見て「綺麗ね。綺麗ね」とずっと言い続けていたようです。そういう都市での感動体験は感覚的な部分に影響を与えていると思います。

お父様はデザイナーでもあるのですね。

そうですね。

ものづくりの家系ですね。建築を意識して、建築家になりたいと思ったのはいつ頃ですか。

建築にしっかりと興味をもったのは結構遅くて、大学入試での時です。当時は、生物やその一部である人間に興味があり、医者を目指していましたが、人間を生物学的に理解する医学ではなく、生態学的に思考する、建築や都市への興味が大きくなっていきました。そこで、デザインを通じて環境と人間を接続する建築に進むことにしました。

それは高校生の時ですね。それで日大の建築学科に入ったのですね。

そうです。

医者でなくて良かったです。そうでなければ今日お会いできませんでした。

そうですね(笑)。


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