- 1.建築家紹介
- 2.名建築家の言葉の影響
- 3.コンペの勝利で大きな飛躍
- 4.魅力が倍増するリノベ
- 5.京町家リノベの手練
- 6.都市彷徨への誘い
- 7.建築作品ギャラリー
名建築家の言葉の影響
名建築家の言葉の影響
清家清さんの文章に啓発されて建築家に
インタビューで初めてお会いする場合には少し緊張するのですが(笑)…。
今までに僕以外で初めてだったのは。
前回のインタビューのTNAの武井さんたちは、初めてだと思ってインタビューに臨んだら、実は以前にお会いしていたことがわかって、少し気分がほぐれました。
僕は『ヨーロッパ建築案内』で淵上さんと会っています(笑)。
ヨーロッパ建築案内
なるほど。駅まで迎えに来ていただき建築ツアーをしていただいたので、それがイントロになっていて、割と気楽に行けそうです。タクシーの中で楽しい講義も受けて、勉強になりました(笑)。最初に小さい頃の話を伺って、建築家への道がどのように魚谷さんの中に生まれたのかを知りたいと思います。魚谷さんのお生まれは。
母親の実家が神奈川県で、生まれたのは神奈川県ですけれども病院だけです。病院を退院してすぐに伊丹に戻りました。ですから出身は兵庫県です。
笑いながら車内講義をする魚谷さん
兵庫というのは。
父親の会社が兵庫にありました。
お父様はどんなお仕事をされていたのですか。
エンジニアです。メーカーで研究職をしていました。
ずっと兵庫で育ったのですか。
一度ドイツに父親が行ったので付いて行きました。1年半位ですね。
小さい頃でドイツの建築に影響を受けたということはないですか。
あまりなさそうですね。ただ学生の時に旅行でドイツに行った際に、自分がいた街に久しぶりに行って、ちょっと見ていると、やはり以前見た建築を何となく覚えていました。
小さい頃の写真
ドイツのどこですか。
ミース・ファン・デル・ローエの生れたアーヘンです。
何歳の頃ですか。
幼稚園でしたので、あまり覚えていませんけれども(笑)。
その後はずっと兵庫ですか。
はい。尼崎でした。
京都は大学のためですか。
そうです。
大学に入る時には建築と決めていたのですか。
決めていました。京大には建築学科で入学しています。
建築学科へ進むきっかけとなったことは何かありましたか。
昔から積み木で遊ぶのが好きでした。何となく積み木を積んで、内部空間をつくって、見て、自分がその中に入れたら楽しいだろうなと思っていました。
それはいくつ位のことですか。
幼稚園くらいの頃だと思います。
ではアーヘンの頃からですね。
積み木で遊んでいましたね。それから中学や高校でも歴史や地理の教科書を見るのが好きで、お寺とか、神社、遺跡の写真を見て、楽しそうだなと思って、そこに自分がいたらどうだろうと想像していました。いつも国語の授業の時も算数の授業の時も関係なく、社会の教科書を見ていました。そしてある時、それを自分で設計できるのが建築家だと知って、それはいいと思いました。
建築家という職業の存在を知ったのはいつ頃ですか。
高校生の時に新梅田シティで空中庭園が工事中で、どうもあれを設計している人が建築家の原広司さんだということを知って、建築家という職業があるんだと知りました。
原広司氏
梅田スカイビル
「梅田スカイビル」ですね。昔アルキテクトニカを案内して関西に来た際に、彼らもあれを見てビックリしていました。
カッコいいですよね。奇抜じゃなくて、普通にいいですね(笑)。
そういうところでも刺激を受けたのですね。
たまたま東京工業大学名誉教授の清家清さんの建築学とはというようなことについて書かれた文章を読みました。詳しくは覚えていないのですが、建築には物理とか歴史とか哲学とか、いろいろなことが込められていると、その文章に魅力を感じて、建築学科に行きたいと思って、東工大に行きました。
東工大に行ったというのは。
高3の秋頃に学校見学に行ったんです。名誉教授という先生はもう辞めている先生だと知らなかったんです(笑)。受付でもう辞めていますと言われて、そうか困ったなと思い、関西で建築学科があるところということで京大に入学しました。たまたまだったんですけれども、周囲に神社とか寺院がたくさんあるので京大で良かったと思っています。
なるほど。京大での先生はどなたですか。
布野修司先生です。
布野修司氏
竹山聖氏 (C)Jerry Huang
人力飛行機
布野さんのところは設計ではないでしょう。
はい。アジア・アフリカの都市や集落を調査する研究室でした。2回生の時に設計課題の講評会があって、発表したら竹山(聖)先生が質問をしてくださったんです。今はとてもお世話になっていますし、今ならわかるんですけれども、当時はめちゃめちゃ恐くて(笑)、なぜ発表してこんなにキツく言われるんだろうと思って、へこんでいました。そうしたら布野先生が「あなたのあれ、面白かったよ」と言ってくれて、いい先生だなと思ってしまいました(笑)。その時、鳥人間といって、自分たちで人力飛行機をつくって飛ばすんですが…。
テレビでやっていましたね。
僕はあれの京大のパイロットをしていました。ずっとトレーニングをしていたんで、体力だけは自信がありました。それで体力があるからという理由で2回生の時に布野先生にアジアの調査に連れて行ってもらったというのがきっかけです。
アジアの調査というのは集落の調査ですね。アジアはどこに行ったのですか。
その時にはインドネシアのスラバヤです。
それは面白い体験でしたね。
大学の同級生が皆、『新建築』とかを読んでいても、それを見て当時の僕にはそこに掲載されている建築の何が魅力的なのかまったくわかりませんでした。それがわからないのは僕がダメだからなのかなと思っていました。それよりも布野先生に連れて行ってもらって、アジアの都市や集落を見るほうがよっぽどドキドキ、ワクワクしていました。その流れでズルズルと布野研に。
建築への入り方が面白いですね。京都に長くいて、現在はリノベーションで有名になっていますが、修論ではどんなことをしたのですか。
グリッド都市をテーマに、京都の旧市街を対象に、京都のグリッドがどう変わっていったかを調査分析して修論を書いています。そんなことをしながら修士を卒業する時に、布野先生から「あなたが建築家になれるわけがないでしょう」と言われて、僕が「いいえ。なります」と言うと、「あなたは京都で修論を書いたけれども、どんなものをつくったらいいと思うの。答えなさい」と言われて、うまく答えられなくて、「ほら、無理ですよ」と言われました。それで仕方がないので、まずは今の京都に相応しいものをつくらなくてはいけないなと思いました。
なぜグリッド都市に興味をもったのですか。
迷宮都市ももちろん面白いんですけれども、グリッドみたいな、あるルールがあるんだけれども、ルールの中で変わっていく、そのバランスが面白いと思ったんです。京都も1200年の歴史があって、つくった人には計画の理念があったわけです。そのつくった人はいないのに、いまだにグリッドは残っているんですが、その構造は変容してきています。そのグリッドがその変容を、どう許容し、あるいはどう規定してきたか。なんとなくそういう建築を自分もつくりたいと思いました。その許容する具合と規定する具合、システムみたいなものに興味がありました。
京都だったからそういう興味をもったのでしょうね。修論で扱っているのは京都の都市グリッドだけですか。他の都市と比較はしてはいないのですか。
それはしていないです。今後いつか比較研究したいと思っていますけれども…。
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