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品番がわからない場合


建築家への道程

建築家への道程
少年時代に建築を意識するチャンスがあった

おふたりのお生まれは。まず年上の鈴野さんから。

S:横浜の反町というところで、山本理顕さんの実家がありますね。東横線だと横浜のひとつ手前です。

家庭の環境はどんな感じでしたか。

S:父は会社員で、おじいちゃん、おばあちゃんと住んでいました。

禿さんは。

K:島根県の松江というところのお寺の息子です(笑)。

お寺で苗字がハゲ(禿)という字なのですか(笑)。

K:浄土真宗なんですけれど、京都には何軒かあるみたいです。親鸞が名乗っていた名前の一字を受けているようです。

ちなみにお寺の名前は何というのですか。

K: 正しく応えるで、正応寺です。

お寺の息子がなぜ建築家に。

K:絶やすわけにはいかないので、いずれはお寺を継ぐつもりでいます。父も公務員をやりながらの兼業でしたから。

ご兄弟は。

K:妹がいますけれど、商社マンと結婚してしまったので跡継ぎとしてはあまり期待できません(笑)。

では正応寺住職兼建築家ですね(笑)。高口(恭行)さんは奈良女子大の教授で一心寺というお寺の住職でもあって、自分のお寺をコンクリートでつくっています。だから、お坊さんと建築家はいい線でできるかもしれません。鈴野さんのご兄弟は。

S:僕も同じで妹がひとりいます。

鈴野さんは自由に生きられるんですね(笑)。そのような環境で育って、子供の頃に現在の建築に繋がるような記憶などはありましたか。

S:全然落ち着かないし、勉強もしなかったし、出来なかったです。でも図画工作だけは好きで、図画工作少年でした(笑)。そんな中で早い段階で家庭教師をつけられたのですが、勉強を教わっていたというよりは話をしたり、本を読んだりしていただけでした。その先生が横浜国大の建築学科に通っていたんです。帰りに寄ってくれるんですけど、課題の模型を持ってくるのでそれをよく見ていて、「大学にまで行って、図画工作が出来るんだ!」というところからですね(笑)。小学校の高学年くらいだったので、単純にそういうところから建築家という職業があるんだと思いました。小学校の夏休みの課題で、その先生に指導してもらいながら、自分の家をスチレンボードとかできちんとつくったんです。それがいろんな人に褒められて、その気になったんです(笑)。

子供の頃の写真(鈴野氏)
提供:トラフ建築設計事務所

では禿さんは。

K:僕は割とあいまいな感じなんですけれど、田舎ってあまり企業がないから、会社員の人がいなくて自営業の人が多いんです。工務店をやっている人とか、設計をやっている人もいて、そういう人の家に行くと、変な窓が付いていたり、なんかちょっと変なんです(笑)。そのときに「割と自由に家をつくれるんだな」と。そういうところでよく遊んでいたというのもあって、建築家という職業は小さい頃から何となくわかっていました。僕もやっぱり図画工作とかは好きでした。文系では全然なくて、理系は理系と決めていたんですよね。得意な科目も物理とかだったので。それで理系に進むんですけれど、そこで建築学科という名前を見つけて、何となく進んでいったというのがありますね。

子供の頃の写真(禿氏)
提供:トラフ建築設計事務所

そうするとふたりとも少年時代から建築を意識できる環境で、建築家という職業も知っていたのですね。

K:だからといって具体的にどういう仕事か分かっていたわけではないんですけども、そういう道があるんだなと思いましたね。

鈴野さんは学校の選定を自分でしたのですか。

S:僕は付属高校だったのでそのままは行きたくないなというだけで受験をしていて、受験指導とかも全然ないのでわからないまま手探りでした。

東京理科大でしたね。付属高校というのは。

S:日大の付属高校だったんです。皆が日大に行けるか行けないかの半々くらいで、でも高校に入って、やっぱり自分で行きたいところを見つけたいなと思いました。

禿さんはどうですか。

K:僕は明治大学ですが、本当はどの大学にどういう先生がいるのかを知って、行くのがいいのかもしれないけど、大した理由でもなく選んだんです(笑)。結果的には入ってみて、中村(拓志)くんとか、同級生に面白い人たちがいっぱいいたんです。そういうまわりの刺激を受けて、今があるという感じはありますね。

鈴野さんの同級生にはどんな人がいますか。

S:妹島(和世)さんのところからヘルツォーク&ド・ムーロンのところに行って、今は武蔵美の准教授になった菊地宏ですね。在学中、一緒に初期のピーター・ズントーや、ヘルツォーク&ド・ムーロンの作品を見て回りました。禿の代は明治でゴールデン・エイジと今でも言われていて(笑)、青木(淳)さんのところに行った寳神(尚史)くんとか、西沢立衛さんのスタッフだった岡田公彦くんもいます。それから学部を卒業してすぐに事務所を立ち上げた滝口(聡司)くんや、上海で事務所を構えるKUUの佐伯(聡子)さん。


中村拓志氏


菊地宏氏


寳神尚史氏


岡田公彦氏


滝口聡司氏


佐伯聡子氏

鈴野さんの大学の恩師は。

S:理科大には意匠研というのがなくて、意匠をやりたい人は計画研に行っていました。そこにいたのが鈴木(信弘)先生です。水空間の権威で、『TOTO通信』では雨樋のことで掲載されていますし、僕が先生の自邸に訪ねる企画もありました。

禿さんは。

k:僕は坂倉建築研究所顧問の阪田誠造さんの研究室です。阪田先生は5年間だけ明治で教えていました。


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