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品番がわからない場合


厳しい能代の自然に育まれた少年時代

厳しい能代の自然に育まれた少年時代
兄は世界貿易センターに刺激を受け、弟は器用の権化

納谷さんと僕が最初にどこで会ったのか覚えていますか。

学氏:突然意外な質問ですね(笑)。ただ随分前でしたよね。

御茶ノ水の川沿いのギャラリーであったオープニング・パーティーの時に、僕から声を掛けたんです。

学氏:ああ、覚えています。失礼しました(笑)。淵上さんから掛けられた「あなた、納谷さん」というセリフを覚えています。

あの時は学さんひとりでした。事務所を始めたのにはふたりにタイムラグがあるのでしょう。

学氏:僕が最初に事務所を構えました。もちろん仕事は何もなくて、看板だけだったんですけれど(笑)、一級建築士の免許はもっていたのでいつでもできるようにと、一級建築士事務所の登録だけはしておいたんです。その時には納谷学建築設計事務所でした。“学”まで付いていたんです。

新さんが加わって、事務所名を変えたのは。

学氏:2年か3年後だと思います。その間、ほぼ実績は何もありませんでした(笑)。

あのパーティーの時に僕が納谷さんの顔をわかったということは、いくつかの作品が完成して発表していたと思います。

新氏:そうするともう一緒に始めていると思いますね。
学氏:ひとりでやっている頃は店の内装とか、そういう店舗系の仕事で、建築は全然つくっていませんでした。基本ふたりで動いていたので、あのパーティーで僕ひとりだったのは何かの理由があったのだと思います。

新さんとは会うチャンスがなかなかなくて、紹介していただいたのはそのずっと後でした。おふたりが秋田のご出身だということは知っていますが、秋田のどちらですか。

学氏:秋田県の能代というところなんです。秋田は長方形をしていて、左のところに男鹿半島というコブが付いているんです。それがだいたい真ん中の辺りだとすると、その上のほうで、青森の県境に近いほうですね。

山のほうですか。

学氏:海のほうです。日本海側で、厳しい寒さです(笑)。風がすごく強いんです。ですから海岸へ行くと砂防林がたくさん植えられています。

そういうところで育つと、小さい頃にはいつか大きな街へ行きたいという気持ちがあったのではないですか。

学氏:そういうのはなかったですし、本当に考えていなかったです。

自然の遊び場がたくさんあるのでしょうね。

学氏・新氏:そうです(笑)。

海にも出ていたのですか。

学氏:行きました。中学や高校の時には、学校が終われば理由なく海に行っていた感じです。別に何をするわけでもないんですけれど…(笑)。

釣りもするのですか。

学氏:やっていましたね(笑)。親が趣味で釣りをやっていて、趣味だったけれど船も持っていたんで、日曜日に家族でハゼ釣りに行ったりしていました。

東京に来てからそういうことはありますか。

学氏:ないですね。田舎では山や海や川へ行くのが気軽なんです。東京ではいちいちそこに至るまでの手続きが長くて、面倒臭くなるんです。それで諦めていますね(笑)。

小さい頃、お兄さんとは仲が良かったですか。

新氏:年が…。今の50歳越えての5歳の年の差とは違って、小さい時の5歳の年の差は大きいじゃないですか。すごく年上の人でした(笑)。

幼少時代の写真

幼少時代の写真

喧嘩などはしなかったのですね。

新氏:喧嘩をしても相手にならないし。それに両親が共働きだったので、兄が保育園に迎えに来るとか、そういう親代りな感じがありました(笑)。

なんとなく学さんはドシっとして兄貴らしい感じがありますよね。

学氏:それ見た目じゃないですか(爆笑)。

小さい頃の体験で記憶に残っていることはありますか。

学氏:やっぱり厳しい冬のことを思い出しますね。遊びもそうだし、辛かったこととか。

楽しかったことは。

学氏:釣りとか海での遊びには楽しい思い出がありますね、たくさん。

育った環境に密接した遊びですね。家族で出掛けたりはしましたか。

学氏:秋田にも観光地があって、そこにはよく行きましたね。家は本家だったので、東京から親戚が遊びに来たりするんです。その親戚と同じような場所へ行ったりして、ひと夏に何回も同じ場所に行ったりするんです(笑)。寒風山に行ったり、十和田に行ったり、岩館に行ったり。何回も行った記憶がありますね(笑)。

小さい時に建築家を目指すきっかけになるような体験はありませんでしたか。

学氏:保育園の時に、親ではなくておじいちゃん、おばあちゃんと東京に親戚を訪ねて遊びに行ったんです。その時に初めて、建物というより東京がインプットされました。保育園の頃ですから、4歳か5歳だったと思うんですけどね。

東京で建物についてのイメージをもったのですね。

学氏:その時、初めて東京に行けば人がいっぱいいるとか、東京のイメージができました。その後、小学6年生でもう一度東京に親戚のおじさんを頼って行ったんです。その時はちょうど「世界貿易センタービル」ができた時でした。その親戚のおじさんが面白くて、地下道を歩いている時に「アテンション・プリーズ、アテンション・プリーズ」と言い始めたことを今でも覚えています(笑)。「なに?なに?」と聞いたら、「今、日本で一番高いビルだ」と教えてくれて、その時に建築と東京が繋がり始めたんですよね。

WTCB

世界貿易センタービル

新さんは、お兄さんが建築をやっていたからですか。

新氏:やっぱりそれは大きいと思います。建築学科みたいなものに進んでいたわけですから。そういうのがあるんだなと。

それは大きくなってからだけれど、子供の頃に学さんのような体験というのはありませんでしたか。

新氏:そうですね。特に。そういうのは全然、僕はないですね。

例えば模型を作るのが好きだったとか、絵を描くのが好きだったというのは。

学氏:弟はものすごく器用です。
新氏:プラモデルとかはすごく作りましたね。

それがすぐに建築に結びつくわけではありませんが、建築家への資質としては抜群ですね。

新氏:プラモデルの入っている箱があるじゃないですか。その箱を再利用して、スキーのジャンプ台を作るんです。自分たちでスキーのジャンプをする人形も作って、ピューっと上から離すと飛んで行くんで、「何m飛びました」みたいな遊びをしていました(笑)。

中の模型とは別なのですね。

学氏:それはそれで作るんです。
新氏:捨ててしまう箱でも作っていました。

それは正に建築家の資質があったのですよ。

新氏:それはすごく楽しかった(笑)。
学氏:そんなこと、ありましたね。

アイディアがいいですよね。建築家はデザインの前にアイディアが必要ですから。


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