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品番がわからない場合


建築家への道程

建築家への道程
すでに高校生で都市計画に興味をもつ

生まれは東京のどちらですか。

生まれたのは文京区なんです。東大病院で生まれました。その後に育ったのは今の西東京市、前の保谷市です。幼稚園の頃に埼玉県の所沢市に移りまして、その後は大学院で一人暮らしをするまでずっと所沢です。

幼稚園の頃の写真

所沢は環境的にどんなところでしたか。

私の育ったところはニュータウンなんです。ただ入居したのが開発の最初期だったものですから、最初は山でした(笑)。山の一角に新しい住宅ができたというところから、その里山にどんどんブルドーザーが入って、開かれて、街になっていきました。

その山で遊んでいたのですか。

クワガタを採りに行ったりしていました。

遊んでいた山がどんどん減っていくのを目の当たりにしたことが、後々都市に目覚めることになっていったのでしょうか。

そうだと思います。あとしょっちゅう新しい住宅の内覧会をやっていて、いろいろな住宅を見たのも建築に目覚める遠因だったかも知れません。
他方でニュータウンでもうひとつ覚えているのは、当時のニュータウンのお母さん方というのは、今でいうちょっとしたモンスター・ペアレントみたいな雰囲気だったことです。先生が子ども達を厳しく躾けようとすると、今ほどではないんですけれど反発するような感じがあって、幼な心になぜそんなにクレームばかり付けるんだろうと思ったことを覚えています(笑)。ニュータウンというのはそういうちょっと特殊な場所で、多様な社会というよりは皆丸の内や新宿に通うエリート・サラリーマンの子ども達で、塾に通って、偏差値で順位が付いて競争が煽られていく、ちょっと極端な空間でした(笑)。

では藤村さんも塾に通わされていたのですね。

そうですね。電車に乗って塾に通ったりとか、模擬試験を受けて順位が付いたりとか、競争は激しかったですね。

その頃には建築という意識はあったのですか。

小学生の頃は神戸市長に憧れていました。神戸市には1949年から69年にかけて原口忠次郎という市長がいて、ポートアイランドという港の人工島や神戸高速という地下鉄、明石海峡大橋などの構想を次々と出すんです。私の父が神戸の出身だったものですから、春休みとか夏休みに神戸に行くんです。そうすると行く度に海に街ができて、山に街ができて、地下鉄ができて、一番開発が盛んだった時期だったので夢中になりました。

ポートアイランド
出典:NASA’s Earth Observatory

原口忠次郎さんの銅像

丹下健三氏

『一本の鉛筆から』

国立代々木競技場

東京カテドラル

広島平和記念館&記念公園

ポートアイランドというのがそれですか。

そうです。博覧会になったのが1981年で、ポートライナーという日本初のゴムタイヤで走る無人の電車ができて、私の中では未来都市のイメージそのものでした(笑)。そういうのに憧れて、やがてそういうのは都市計画というんだと知りました。原口忠次郎という人は、土木出身の工学博士で、その人が山を切り崩して、その土砂をトンネルの中に設置したベルトコンベアーで運んで、海を埋め立てて、ベルトコンベアーのトンネルは開発が終わったときに下水道に使うという一石三鳥の手法を考えたんだと。原口さんの銅像がポートアイランドにあって、そこも父に連れられて見に行きました(笑)。
最初はそういう仕事に憧れて、さらに高校の頃に丹下健三さんの『一本の鉛筆から』という本を図書館で読んで、丹下さんが「東京計画1960」などいろいろな仕事で、正に1本の鉛筆でいろいろな都市を計画しているということを知って、建築家に憧れていきました。今でいうと前時代的なんですけれど、当時はマスタープランを鉛筆1本で描いていくような建築家像に憧れていました。

丹下さんの「国立代々木競技場」に影響を受けたという建築家はたくさんいますが、藤村さんの場合は都市計画に興味をもって、建築に興味をもったのですね。

そうですね。丹下さんの仕事でいうと広島のマスタープランとか、「東京計画1960」ですね。ああいう都市に軸線をピュッと線を引くようなアーキテクトのイメージが原点にあるんです。

ずいぶんインタビューをしましたが、高校の頃に建築よりも都市計画に興味をもった建築家は初めてです。

そうですか(笑)。「国立代々木競技場」「東京カテドラル」よりも先に広島(広島平和記念館&記念公園)を見てしまいましたので(笑)。

高校は地元の高校ですか。

埼玉県の川越高校というところです。

大学に東工大を選ばれた理由というのは。

当時はロボット・コンテストで東工大がテレビによく出ている時期で、日本のMITなんて呼ばれて、憧れはありました。ただ東工大出身の建築家というのが、篠原一男さんとか何人かイメージはあったんですけれど、東大に比べてそんなにたくさんいるわけではないので、そんなに具体的なイメージはありませんでした。東工大には都市工学科と似た社会工学科というのがあって、建築と都市計画をいっしょに学べるんではないかと漠然と思っていました。

建築学科ではなく社会工学科に入ったということですか。

はい。1年間は教養で、その後に進学振り分けがありました。当時は社会工学と建築にそんなに差があると思っていなくて、ちょっと都市的なところから学ぶのと建築的に学ぶのとの違いくらいかと思って、社会工学のほうにも建築の奥山信一先生がいらっしゃいましたので、そっちから学んでみようと思いました。入ってみたらずいぶん違うということがわかって(笑)、だんだん差を感じるようになりました。

学部は社会工学科だったのですね。

はい。当時の社会工学科は面白くて、建築の先生もいらっしゃいましたけれど、造園の先生もいらしたし、社会学の先生もいらしたし、統計とか数理的なことを教える先生も、経済学の先生もいらっしゃいました。

社会工学というのは一言でいうとどんな内容の勉強なのですか。

政治的なことや社会的なことも含めて、工学的に解決していくというコンセプトの学科です。1950年代の終わりに丹下さんがアメリカのMITに行って、領域横断的に都市の課題を解決するというアプローチに感銘を受けて日本に帰って来て、そういう学科をつくろうと丹下さんは動いたんですけれど、東大の中では結局それが「都市工学科」という形で、土木と建築の間という位置づけででき上がりました。
東工大ではそのコンセプトをさらに広げて、人文系の分野も入れて「社会工学部」という形で全体を横断するような組織をつくろうとしたんですけれども、最終的にはそれも学部にはならなくて、学科になっています。

そうすると今の仕事の土台をつくったことになりますね。

振り返ってみればというところなんですけれど(笑)。空間的な問題を経済的な問題と合わせて考えるところがあって、経済だけだと、例えば数値目標で、何年後に何%減らしますという提示の仕方になりますが、それを実際の都市空間に落として、例えばどこを中心にして、どこに都市機能を集約して、どのように機能を配置していくとかという地理空間に落とすような作業は、経済の論理だけではできません。都市がスプロール的に拡大してしまうのを、どう考えたらいいかというときに、経済の見方と空間の見方を結びつけましょうということが1960年代の課題だったんです。
その後、1970年代に入ると建築も都市計画も造園も、そのようなマクロとの関係というよりは「人々の記憶」とか「町並み」などを扱う方向に向かったので、初期の工学的に考えるというコンセプトが宙づりになっていきました。
今、逆に都市が縮小していくというときにも同じ課題が生まれていて、再び経済の問題と空間の問題をセットで考えなければいけない時期にきています。

大学院では建築に入られたのですか。

そうです。社会工学科に入って最初に衝撃を受けたのは、バブルが崩壊して阪神大震災が起きて、という時期だったので、これからはマスタープラン型の都市計画はもう必要なくて、いわゆるひらがなの「まちづくり」の時代だということになっていたことでした。それで住民参加のデザインを研究されている土肥真人先生のところに最初は入りました。
社会工学科の演習課題で訓練した作業のひとつに、KJ法(川喜田二郎法)というのがあります。付箋でいろいろな人の意見を貼っていって、それをカテゴリーに分けて、模造紙の上でこんな意見とあんな意見があって、こことここが対立していて、こことここが近いとやるワークショップがあるんですけれど、あれを最初に現場で活用しているのを見たときには、感動したんです。当時、千葉県印旛村の都市マスタープラン作成のためのワークショップを土肥研がコンサルといっしょにやっていました。村のおじいさんやおばあさんが最初は黙って座っているんですけれど、ものの5分10分しないうちにものすごく活発に意見を言い合って、本当に魔法みたいだと思って最初は感動していたんです。
ただ何度か見ているうちに疑問が湧いてきてしまいました。誰が何を言っているとか、どんな意見があるというのはよくわかるんですけれど、それを提案にしましょうというときには、どこかから全然違う絵がやって来て、いきなりポンと飛躍してしまうということが起こるからです。それは変ではないかということを土肥先生に言っていたら、「そんなに最終成果物にこだわるなら建築に行け」と言われまして、やはり建築のことはちゃんと建築の専攻で学ばなければいけないんだなということで、大学院を受けて何とか入れていただきました。

建築学専攻の先生はどなたでしたか。

塚本由晴先生でした。

塚本由晴氏

篠原一男さんにはお会いしていなのですか。

何度かレクチュアなどでお会いしたくらいで、いろいろな伝説を伝え聞くだけです(笑)。篠原研究室では朝来ると院生の机の上に立方体の粘土が並んでいて、それをコンポジションする課題を即日設計のようにやらせて、それを篠原先生がお茶の時間に見て講評するみたいなことをよくやっていたというんです。日頃からそういう造形演習をやりながら、他方で長谷川逸子さんが研究生としていらして、住宅の実施設計やっているんです。篠原先生が造形演習のほうで閃いた形を、長谷川さんがつくっている実施設計のほうにポンとかぶせて、これでやってみようということをおっしゃって、長谷川さんがそれまで積み重ねてきた図面がパーになるんで「これはとんでもありません」と言いながら怒っていたとか(笑)。

そうすると篠原さんも同じ系統ですね。

コミュニケーションや議論を重視していたという意味ではワークショップ型ですね。カリスマ性を演出することを篠原先生はとても意識して心掛けていらっしゃったと思うんですけれど、同時に学生の意見を非常に聞きたがる方ですし、学生を建築家として対等に扱う感じがあるんです。「あなたはどう思うのか」とか「あなたはそう考えるのね」と問いかけながら、ご自身の考え方をまとめていく。そういうところがいろいろな建築家を育てたんだと推察します。

磯崎さんが審査員をしていた「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」コンペで、篠原さんが2等に入っていましたが、あの案もみんなでいろいろやっているのでしょうね。

建築はインテグレーション(統合)が大事だと思うんですけれど、最初のうちはアーティキュレーション(分節)のほうが大事で、個別にいろいろな案を検討しているのを上から眺めている先生がピュッと統合していく。それが端から見ていると「閃いている」ように見えるんですけれど、実は弟子とのそれまでの会話が影響するみたいなところがあります。塚本先生もそういう感じでした。

建築デザインは、そういうやり方と親分が全部スケッチを描くやり方のふたつになるのでしょうね。もうひとつ学校のことで聞きたいのですが、ベルラーヘに行ったのは大学院が終わってからですか。

そうです。

ベルラーヘを選んだ理由は。

ひとつにはオランダ建築が好きだったということもありますが、もうひとつは当時コールハースの影響で、何でも建築の問題にするというのが流行っていたんです(笑)。政治だろうが経済だろうが文化だろうが全部建築の問題にして、片っ端から調べると。ヨーロッパのEU統合の問題を建築の問題としてリサーチするといって、いろいろ調べた挙句にヨーロッパの国旗をデザインしたとか、中国のコンペをやるのに、まず中国のことをリサーチして、中国のことをあれこれ調べた上で、最後に「CCTV」のコンペに出すとかですね。そういうリサーチをベースにしたデザイン教育を当時のベルラーヘは標榜していましたので、それを身に付けたいと思ったんですね。

CCTV

明快ですね。大学の同期にはどのような建築家がいますか。

塚本研究室の同期では長谷川豪がいます。同じ時期に同じ環境で教育を受けたのでとても似た考え方をするなと思いますが、アウトプットは随分違いますね。


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