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品番がわからない場合


ルイス・カーンの作品を見て奮起

ルイス・カーンの作品を見て奮起
若き日の建築的試練

建築家というものを意識したのは。

父が土木や建築の仕事に携わっていました。どちらかというと泥まみれになっている汚い仕事というイメージでした。汚いイコール、エネルギーがすごい。でも何の魅力も感じていなくて、ただつくるのが好きだったので、大学に行くに当たって、土木より建築のほうが面白いかなという思いでした。ただそのときの建築は現場監督的なイメージで、建築家というイメージはなかったです(笑)。

それは高校生の時ですか。

高校のときにも何も思ってなくて、大学へ行くときにも文系か理系かというと理系で、工学系がいいかなというくらいでした。建築家というのは大学で知りました。もちろん丹下(健三)さんとか、黒川(紀章)さんのことはなんとなく知っていましたけれど、それが建築学科の延長上にあるとは思っていませんでした。全然違う世界だと思って、建築学科に進みました(笑)。

丹下健三氏

黒川紀章氏

建築に関しては奥手だったのですね。国士舘大学を選ばれたというのは。

関東学院と国士舘に受かっていたんです。関東学院はキャンパスという感じできれいでしたけれど、遠い八景島で海の近くなんです。海は福山でも見れるし、ここまで通う必要はないと(笑)。国士舘は世田谷のど真ん中にあって、新宿や渋谷にも近いし、それはもうここしかないだろうと(笑)。

大学の先生は誰になるのですか。国士舘に国広ジョージさんはいましたか。

僕が卒業してから入られました。当時、伊藤哲夫さんとか、滝沢健児さんがいらっしゃいました。僕の恩師は構造の田中輝明先生で、菊竹(清訓)さんや内井(昭蔵)さんの構造をやられていて、もう亡くなられています。僕は構造のゼミにいたんですけれど、本当にいい加減な学生だったので、友達が構造に行くというので僕も行ったんです。行ったところが田中研究室で、先生は授業中に怒るとチョークは投げるし、お酒は豪快に飲むし、すごく恐い先生でしたけれど、菊竹さんの現場を見させてくれたり熱い構造家であり、温かい教育者でもありました。設計課題だけは好きで一生懸命やっていたんですけれど芽が出ずに(笑)、いつも上位に入るやつは決まっていました。僕には全然票が入らないんです(笑)。3年のときに所属していない滝沢研究室でルイス・カーンの建築ツアーがありました。ルイス・カーンが誰かは知りませんでしたけれど(笑)、海外へ行ったことがなかったので、海外へ初めて行けるという動機不純でよそのゼミの旅行に申し込みました(笑)。

田中輝明氏
提供:田中輝明建築研究所

ルイス・カーン

どんな作品を見たのですか。

「キンベル美術館」を見て、あとはほとんど東海岸で、「ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟」「ブリンモア大学女子寮」「エクセター・アカデミー図書館」、それから「イエール大学アートギャラリー」「イエール大学英国美術研究センター」を見ました。もちろんその他にもモダニズムのケヴィン・ローチとかサーリネンの作品なども見て回りました。すごく見応えがありました。「イエール大学英国美術研究センター」が一番良くて、中に入ったときに吹抜けのホールに燦々と光が注いできて、突き板とステンのパネルと階段が独立してあって、何かすごく感動したんです(笑)。

学生がいきなりあれを見たら感動するでしょうね。

あれに感動して、建築ってこういうことなんだと思いました。そのときにはすでにカーンは亡くなっていて、僕もつくったものが人をこういうふうに感動させることができたらいいなと思って、建築家になりたいと強く思いました。帰って本を読んで東京の建築を見て回ったり、ようやく丹下さんや安藤(忠雄)さん、伊東(豊雄)さんなど、いろいろな建築家と作品とが繋がり始めて、建築家を目指そうとなりました。そうなると3年の後期の課題でいきなり1等が取れて、無理矢理構造の研究室から意匠の研究室へ移り、卒業設計でも学内最優秀の滝沢賞をいただきました(笑)。

キンベル美術館

ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究棟

ブリンモア大学女子寮

エクセター・アカデミー図書館

イエール大学アートギャラリー

イエール大学英国美術研究センター

スゴイ!そうするとその旅行がかなりの刺激となったのですね。

そうです。3年間ずっと上位だったやつをいきなり抜くことができました(笑)。

誰からも投票されなかった人が、すごい変わりようですね(笑)。卒業されてから設計事務所には入っていないですね。

建築家の事務所に入って、修行を積まないと建築家になれないといった建築家の道という空気感が当時はまだありました。僕も東京の建築家事務所の門を叩いたんですけれど、第2次ベービーブーム世代で就職難だったんです、言い訳をすると(笑)。大学院へ進めとかいろいろ言われました。でもその当時は社会に出て、働きたかったんです。事務所に入れないというときに自分の大学名とか、そういうことにコンプレックスのようなものを感じましたね。

でも成績は良かったのですよね。

ポートフォリオには自信をもっていて、最後はアポなしでも行きましたね(笑)、ボスに会わせてほしいと。そうしたらスタッフが出て来て、「どれだけの作品を持って来たのか知らないけれど、アポなしでボスは会わないよ、失礼だろう」と言われて、僕も「スタッフに会いに来たんじゃない。ボスを出せ」と言いましたが、「お前、帰れ」と言われて、もう無理かなと思うこともありましたね(笑)。

度胸がありますね(笑)。

やはり自分が好きになったものを簡単に諦めるよりは…、でもすぐに諦めるんですけれど(笑)。それで東京からまず引き上げて、久々に地元の友達と瀬戸内海でゴムボートを浮かべ釣りとかをしていました。魚とか穫って来て、おかんに「今日の晩飯」とか言っていたんですけれど(笑)、7月位になると大学まで出してもらって、これはまずいなと思い出して、まったく関係のない仕事をするより、やはりものづくりに関わりたいということで、現場をやろうと思いました。そのときにはもう建築家というのは諦めていました、どこかで。

そうだったのですか。

『新建築』とか『住宅特集』を見るのもイヤになって、本屋にも行かなくなりました。そして現場に入ったら、現場が大変なこと大変なこと(笑)。自分のおやじくらいの人を指示していかなければいけないのと、学生のときに図面を描いて、模型をつくって、でき上がった作品を見学に行って、感動してというのとは、到底同じ建築には見えませんでした(笑)。

施工会社に就職をしたのですか。

はい。5年間いて、ものをつくる一流の人から三流の人、いろいろな人に出会いました。自分で設計をしていないので、できた建築空間には感動しないけれど、職人さんたちと一生懸命つくったものには愛着はあるんです。これなら自分が設計したものをつくると、もっと感動できるんじゃないかなと思って、そうしたらいつの間にかまた本屋に行き始めていました(笑)。積算をやったり、雨漏りの確認に行ったり、古い改修の仕事を任されたりして、建築はできたときには華々しいし、幻想的な部分はすごく大切なんですけれど、自分の描いていたものよりも実際はもっと人に近くて、人が使うということと常にそこには時間が蓄積されていて一過性じゃない、芸術品じゃないことを体験しました。

前田さんは現場が非常にいい経験になっているのですね。苦労されていますね。

最初は胃潰瘍だと知らなくて、明日あの手ごわい大工が来ると思うと本当にイヤで(笑)、夜中の3時位になると何か痛いなと目を覚ましていました。案の定、イヤな目にあうと次の現場ではあの大工だけは絶対に許さんと思って、すごく現場でいろいろな勝手などを学んでいました。そして次の現場であの大工が来るなとしっかりと段取りして構えていると、意外と普通のやりとりなんです。要するに気持ちよく仕事させてくれということなんです。やはり段取りが悪いとイラつきますよね(笑)。

現場のことがわかるというのは強いですね。

現場監督の能力で図面が100点にはならないですけれど、95点にも60点にもなるということがわかりました。現場監督のエースをいつもよこしてくれとか言ってもそうじゃないので、それを当てにしないで質をどう維持できるかということになります。定例会議に現場の職長を呼んでもらうんです。能力の高い現場監督だったら、いろいろな知恵が出てもっといいんですけれど、能力の低い現場監督でも職長たちは手戻りするとお金に関わってくるんで手抜きをしません。意見交換をして、図面をよりいいものにします。


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