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品番がわからない場合


福山が輩出した藤井厚二や武田五一

福山が輩出した藤井厚二や武田五一
福山の建築的風土

昨日、『Architectural Record』が僕の事務所に届きました。そのDesign Vanguard 2014に前田さんが掲載されていました。あれは世界中の新人の中からピックアップされていたのですね。自分自身でアプライされたのですか。

そうです。独立してから10年以内という制限があって、ギリギリでした。10年間の作品を通して評価する賞のようです。

僕が前田さんを初めてお見かけしたのは,JIA主催の「日本建築大賞」の公開審査のときでした。最後に日建設計の山梨(知彦)さんの「ホキ美術館」が大賞を取った年でした。あれは何年でしたか。

2012年の2月です。他に遠藤秀平さんの「福良港津波防災ステーション」、千葉学さんの「諌早市こどもの城」、西沢立衛さんの「豊島美術館」、住宅では横河健さんの「杉浦邸/多面体 岐阜ひるがの」と僕の「森のすみか/nest」が残っていて、最後に落ちてしまいました(笑)。

そのときには残念ながらお話できませんでしたので、今回インタビューできるのを楽しみにしていました。広島には何回か来たことがありますが、福山は初めてです。福山を訪れてびっくりしたのは、駅前がお城だったことです。素晴らしいですね。

そうとっていただけるといいんですけれど…(笑)。人は大きな都市にある駅前に憧れるようです。ここには関ヶ原以降、徳川の従兄弟が広島などに目を効かせるために呼ばれたんです。言葉も名古屋弁に近いところがあります。そして福山城が築かれたんです。お城なんでお堀があるんですけれど、なぜか明治維新後、お堀の中にJRを通したんです(笑)。

福山城
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なるほど。

昭和初期くらいまで、どんどん埋め立てをして、土地を活用しようという動きがあって、福山もどんどんお堀が埋められて、気付くとお堀はなくなって、お城の手前に分断するようにJRが通っているということになっていたんです。

観光客にとっては駅から近くて便利ですが、地元ではどうなのですか。

駅から北は文化ゾーンになっていて、美術館や博物館のあるエリアで、駅から南は商業ゾーンになっていて、ガラッと雰囲気が違う印象があります。どうもそれを境界として区分けしているところに残念なところがあります。

広島市から福山市はどのくらいの距離があるのですか。

ちょうど100kmくらいですね。僕も広島の建築家と括られやすいと思うのですけれど、でも広島市ではなく,福山市という第2の中核都市で、例えて言うなら博多と北九州みたいな雰囲気です(笑)。人口は50万人弱くらいです。広島市は山口県寄りで、福山市は岡山県寄りなんです。

気候は温暖なのですか。

冬は寒いと思うんですけれど、非常に自然災害は少ないですね。台風も直撃することはなく、避けて行ってくれたりします(笑)。地震も芸予地震以前はほとんど記録に残っていないくらいで空白地です。降雨量も1200mm位でとても少ないです。そういう意味では外の環境というのは、自然に対してプロテクトするというより開放的で、災害の意識は低いですね。

繁華街は駅の南側になるのですか。

そうですね。お堀のまわりに城下町があった場所なので、昔ながらの商店街とか、そういった面影はいまだにありますね。ただ1945年8月に福山空襲があって、ほとんど壊滅しています。でもその名残として商店などはいまだにありますね。江戸時代から続いているとおり町があって、そこに軒を連ねて商店がありました。それが戦災で焼けてもやはりとおり町を軸にお店が連なっていますが、最近は徐々にシャッター街化してきていて、廃れつつあります。

福山からは藤井厚二武田五一という著名建築家を輩出していますけれど、ふたりの作品は福山にあるのですか。

福山市章は武田五一がデザインしていて、いまだに使われています。作品としては駅前の「公会堂」が戦災を逃れたにもかかわらず、時代の中で活かせないと思われたんでしょうね。解体されてしまいました。残念極まりないですね。

藤井厚二氏

武田五一氏

それが武田五一の唯一の故郷での作品だったのですね。

そうです。

藤井厚二はどうですか。

武田五一は福山藩士の息子で、藤井家は造り酒屋で有名な豪商なんです。藤井厚二のお兄さんが13代藤井興一右衛門で、その藤井興一右衛門の別荘が、ここからちょっと南に行った鞆の浦という古い港町の山の中腹にありました。それが使われなくなって、朽ちていたんです。5年前にたまたまこの土地を買われた方がいらして、ほとんど壊れていたんでそれを壊して新たに建てようとしていました。それが藤井厚二の作品じゃないかという話になってきて(笑)、そうであるなら建築家に相談しようということで、われわれのところに相談に来てくれました。4年かけて、その建物と庭園を再創造していきました。

それは何という作品ですか。

「後山山荘」です。大山崎にある「聴竹居」のサンルームと瓜二つで、初めて見に行って、間違いないと思いました。

藤井さんの作品がひとつでも残っていて良かったですね。

ただ残せるかなと思うほど朽ちていましたが、なんとか生かしたいという強い思いと、粘り強くプロジェクトに関わる人たちと協働していくことで残せました。

作品と地域的な繋がりを見ていると前田さんは福山から離れることはないと思います。前田さんの活動のやり方にインターローカルという言葉が出てきます。これはどういうことを想定した言葉ですか。

例えばグローバルとローカルでグローカルという造語もありますよね。グローバルな視野で考えローカルな視点で活動しようみたいな。ニュアンス的な問題だと思うんですけれど、インターローカルというと地域間の問題として捉えていけるのではないかと思いました。例えば今まででしたら福山対東京というように、東京という大都市を通してどこかの町を比較するというのがあると思います。今はグローバルでいろいろな情報を取れるなかで、世界の福山と同じような規模の町の社会的な問題意識などを、東京を介さずに共有できることが増えていると思います。

対象となるものが国外にあるということでしょうか。

国境とは関係のない地域間の関係性ですね。東京を介して世界ではなくて、福山から世界のどこかの地域へ情報発信や関係性がもち得るということです。例えばここ数年、ARCASIA建築賞(アジア建築評議会)を受賞したり、審査員をして関わったりする中でアジアの国々へ伺う機会が増えました。ベトナムやマレーシア、ネパール、インドネシアなどアジア17ヶ国の建築家と会う機会が増え、福山を拠点に様々な地方都市の方々とつながれる楽しさがあります。

生まれは福山のどういう地域ですか。

中心市街地から少し南のところです。駅から自転車で20分くらいです。

自然は多いところですか。

今は少なくなりましたけれど、田んぼがあって、小学生の頃には稲を刈った上でゴルフのまねごとをしたりしていました(笑)。冬場には藁が積んであったので、そこで基地をつくったり、夏場は用水路に入って鯉を挟み撃ちにしたり、1日中遊んでいました(笑)。それと祖母の家が内海町という福山から車で1時間位行った鞆の浦の先の小さな島にあるんです。お盆やお正月などによく行って、海で泳いだり、山で遊んだりしていました。福山市内にも田んぼなどはあってのどかなんですけれど、当時の内海町は橋も架かっていなくて海も星空も本当にきれいで素朴でした。

子どもの頃の写真
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学生時代の写真
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学生時代の写真(右から2番目が前田さん)
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小さい頃に得意だったものはありますか。

勉強は不得意でしたけれど(笑)、何かを描いたり、つくったりというのはすごく好きでしたね。

図画工作は得意だったのですね。やはり建築家に繋がりますね。東京にいずれ出たいという気はありましたか。

ありましたね。10歳上の兄がいるんですけれど、僕が小学校4年位のときに20歳位で、東京の日大に行っていて、帰ってくると洗練されているわけですよ(笑)。当時、ラジカセで洋楽を持って帰ってくるんで、遊びに行っている隙にそのカセットテープを盗み聞きしたり、知らないうちにダビングしたりしていました(笑)。

やはり東京に憧れていましたか。

いつか東京に出るなら、聞くだけでなく、自分の目で見て、そこに住む。ただ観光で行くのと住むのでは違うだろうと思っていました。


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