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品番がわからない場合


早熟な学生建築家

早熟な学生建築家
SPEED STUDIOをベースにして発展

防衛大を辞めて、横浜国大に入っていますが、横浜国大を選択したのは。

たまたま後期試験だったんです。僕は前期試験で東工大に落ちて、後期で願書を出していたんで(笑)…。

保坂さんの恩師というのは誰になるのですか。


北山恒氏


西澤立衛氏


飯田善彦氏


坂茂氏

北山(恒)先生、西澤立衛さん、飯田善彦さん、坂茂さん、野田俊太郎さんですね。

研究室は。

その当時山田先生という教授がいて、北山先生は助教授でした。山田先生と北山先生が意匠系を受けもつという感じになっていて、意匠系のことを横浜国大では第8講座と当時呼んでいて、その第8講座というのに属して、山田先生と北山先生に習っています。

学生時代にSPEED STUDIOをつくっていますがその発端は。

4年生の卒業設計が終わって、荷物をかたづけていたんです。横浜国大ではひとりひとつテーブルがあって自分のコンピュータを持ち込んで卒業設計をやっていて、僕は大学院に進むのでそのコンピュータを大学院の部屋に持っていこうとしていて、西田(司)は進学する予定がなかったので、きっと自分の家に持っていくためにかたづけていたんだと思います。あいうえお順で席ができていたので僕と西田は背中合わせでした。それで後ろからトントンと西田に声を掛けられて、「なに」と聞いたら、「西田邸」というお父さんがお施主さんで、おじいちゃん、おばあちゃんも住む2世帯住宅のプロジェクトがあるんだけど、一緒にやらないかと。西田が4年生の夏からそのプロジェクトをやっていたのを知っていました。西田の実家を西田が設計するのに、僕が参加する必要がないと思ったので、「ひとりでやったほうがいいんじゃないか」と僕は最初言ったんです。でももう1回誘われたんで、どうせやるなら雑誌に発表できるものを目指してつくりましょうという話と、作品を発表するときに、西田が「西田邸」をつくって、僕が手伝ったみたいな形はイヤだから、僕と西田の名前を連名できちんと発表しましょうということを確認して、じゃあやろうという話になりました。それが発端です。

西田司氏

西田邸
提供:保坂猛建築都市設計事務所

SPEED STUDIOではどれくらい作品をつくっていますか。

10件くらいでしょうか。常に一緒にやっていましたけれど、最初の案を考えるところは、かなり僕がやっていたんですよ(笑)。例えば「西田邸」は道路に対してガラス張りで開いて、テラスがこう上がっていて、向こうから来ている道路はスロープで上がっていく、その提案をしたのは僕なんです。その辺に転がっている段ボールを持ってきて、チョキチョキとハサミを入れて、こっちをめくって、こっちを下げて、屋根を乗せて、それを敷地に乗せてみて、こういう感じの建ち方がいいんじゃないかとやったんです。そんな感じで最初の案のイメージをつくるのは僕がいつもやっていました。

確か保坂さんの実家の「保坂邸」もありましたが、それもふたりでやっているのですか。

ええ。やり方はいつも同じで、僕の実家だろうと、他のお施主さんだろうと打合せには僕と西田が一緒に行って、図面を元にいろいろな話をするんです。あるいは最初のヒアリングも一緒に聞いて、どういう家がいいかという話をして、一緒に考えているんですけれど、僕がスケッチを描いて「こんなのがいいんじゃない」と言うと、西田が大体「ああいいね」と言って、そこから作品を良い方にふたりでどんどんブラッシュアップさせていく、そんな感じでやっていました。

保坂邸
提供:保坂猛建築都市設計事務所

SPEED STUDIOがベースでそれぞれ独立して、ふたりとも日本の若手建築界では著名になって、SPEED STUDIOはすごいなと思っています。
SPEED STUDIO時代にはどういう建築を目指 していたのですか。

自分たちが何をつくるのかというのを、きちんと意識していなかったので、雰囲気でやっていた感じですね(笑)。いいものができればいいというくらいの感じで、とにかく素晴らしいものをつくろうという気持ちだけで5年間くらいやっていて、28歳になったときに急にこのままではまずいだろうと思ったんですね。

そうすると解散の理由は。

本当に今の話の通りです。このままふたりでやり続けてもそんなに良くないというか、ふたり別々でやったほうがふたりのいいところが出るでしょうと思ったんです。僕自身も個人で深くものを考えずに、成り行きや勢いでやっていくのではそろそろいけないなと思い始めたし、別々になって、1度落ち着けば、自分で勝負していくしかないので、建築についてきちんと考えてやっていくと思ったんです。それをやるには、28歳というのはちょうどいいんじゃないかと思たんです。あと5年やると33歳になっちゃうので、20代でSPEED STUDIOを解散して、暇な時間をもって、1度我に返って、スタートを切れたらいいなと思って、僕から西田に提案したんです。「SPEED STUDIOを解散してやってみない」と。

そうしたら西田さんは何と。

西田は1分間くらい考えて(笑)、「今までありがとう、それでやっていこう」と。

SPEED STUDIOという名前はどういう理由で付けたのですか。

SPEEDという女性4人の歌手のグループがいたんですね。その4人のユニットの音楽を結構聞いていたんですね。そのときは車に乗りながらSPEEDを聞いていて、そこで事務所名は何にするという話が出たんです。「SPEED STUDIOってどう思う」という話になって、「ああいいんじゃない」となって、それで決まったんです。それだけです(笑)。


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