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東京での建築修行
東京での建築修行
第一工房・高橋てい一さんからの貴重な教え
針生さんの生まれはどちらですか。
名取市の閖上です。
育ちもずっと名取市ですか。
そうですね。僕は昭和17年の10月に生まれたんですけれど、実は生まれてすぐに親父が死んでしまったので、お袋にずっと育ててもらいました。両親ともに教師で、お袋は閖上小学校の教師だったので、4歳位からよくお袋を追いかけて小学校に行っていました(笑)。入学する2年位前から通っていた感じです(笑)。
大学へ行くまで名取市だったのですか。
住まいは大学院までずっと名取市の閖上の高柳というところでした。
そこはどういう環境でしたか。
海から少し離れた農村地帯です。戦前から、メロンやカーネーションなどの施設園芸が盛んなところで、割と発展しているところだったと思います。
小さい頃はどのような遊びをしていましたか。
田んぼ野球。稲を刈った後の田んぼで野球をしていました。あとは魚獲りもしましたし、チャンバラもしましたね(笑)。
そうした小さい頃の経験で、現在の建築家へ至った繋がりのようなものはありますか。
何になりたいというのはなかなかわかりませんでしたけれど、小学校1年生の時に交通安全のポスターで、お母さんに手を引かれた子供をポスターからはみ出すようにすごく大きく描いて、総理大臣賞として賞金10円をもらいました。当時としては相当の金額だったようです(笑)。それがひとつです。それと家の隣に分家が建ったんですけれど、その時に家の“居久根(いぐね)”…。“居久根”はわかりますか。
わかりません。
防風林のことです。風雪から家屋敷を守る屋敷林で、L型に杉を6列位植えていくんです。家の“居久根”を2列くらい間引いて、分家を建てたんですけれど、その時の大工たちが面白かったんです。船大工だったので、船をつくっている合間に住宅をつくっていました。僕に木彫りで船を作ってくれました。その時のことも相当印象深いですね。普通の民家でしたけれど、毎日、家が建っていくのを見ていました。それらふたつのことが、少しは今に繋がっているかもしれないかな。
それは小学生の時ですか。
小学校の3年生の頃でした。
東北大学に入った頃には建築と決めていたのですか。
理系がいいのか文系がいいのか、わからなかったんです。実は東北大学ではなく、東京へ行きたかったんですけれど、反対されました。高校が仙台二高(宮城県仙台第二高等学校)で、隣の東北大学にはほとんど受験をしないで入れたんですけれど、入って1年大学に行かなかったんです(笑)。大学に入ったあとによく考えて、建築だなとなった感じです。19歳の頃です。
迷っていたんですね。
何となく工学部に入ってしまった。というのは仙台二高から東北大学の電子工学へ行った4つ上のはとこがいて、それを追いかけたところがあります。
東北大学での先生は。
吉武(泰水)先生の弟子の筧(和夫)先生です。筧先生はデザインもしますけれど、どちらかというと建築計画系でした。
卒業後、大学院に進んだのはどういう選択だったのですか。
3年の時にスキー場で急性腎臓炎になって3か月休んだんです。それで課題が遅れてしまいました。その時に3か月の間ずっとノートを届けてくれた友達がいて、それで落第せずに済んで、溜まった課題は夏休み中にやって、何とか進級しました。4年になって、設計をしたいと思っていましたけれど、皆よりも色々な面で遅れていると思っていて、何となく大学院へ進んでしまいました。
その後、第一工房に入ったのは。
大学院の2年のはじめに、就職活動をしようと思って、まず先輩がいた槇(文彦)先生の事務所に、図面を持って訪ねたんですけれど、就職難の時で20人も待っているというんです(笑)。そんな20人も待っている事務所は東北大学の田舎者では無理だろうと、槇先生には会わずに諦めました(笑)。その次にやはり大学の先輩である大竹ジュニアさんのいたU研究室に行きました。大竹ジュニアさんを知っていますか。
大竹康市さんですね。知っています。
大竹ジュニアさんに色々話を聞くと、U研究室でも早稲田大学の人が10数人待機しているというんです。U研究室も大竹十一先生に会う前に諦めました(笑)。それで仕方がなくて、高山(英華)先生の弟子の大村(虔一)先生のやっている都市計画の事務所に行きましたけれど、「デザインをしたいんだろう。計算機を回すのは嫌だろう」と言われて、「そうですね」とそこもやめました(笑)。次に菊竹(清訓)事務所に顔を出しました(笑)。
すごい就活遍歴ですね(笑)。
行くところがないんですから、仕方がありません(笑)。菊竹事務所では1か月間試験期間があって、「萩市民会館」の屋根トラスの模型をつくりました。ちょうど伊東豊雄さんや長谷川逸子さんがいた頃で、教えていただきました。1か月経って、電話で「残念です」と言われました(笑)。それで大学に戻って来たら、建築学科の事務室に、第一工房が全国の大学に出した応募要項がありました。応募すると、課題は「ある地方都市の平城(ひらじろ)に立つ美術館」で、A1のケント紙に設計主旨と配置を含む平立断とパースを描くというもので、48時間後の提出でした。設計図はどこで描いてもいいし、誰に手伝ってもらってもいいということでした。わかったのは寝るなということ(笑)。体力テストだということと、誰に頼んでもいいということはマネージングの話だろうと。僕は東北大学から東京工大に移った青木正男先生の研究室を借りました。その青木先生を追いかけて来ていた同級生3人に手伝ってほしいと頼んだんですけれど、皆頭が堅くて「そういうのはまずいんじゃない」と断られました(笑)。僕の案は、「グッゲンハイム美術館」ではないですけれど、スキップアップしながら、展示場が連続していって、展示場から展示場に行く時にスリットがあって、お堀が見えるようにしました。最後は2重螺旋のようにお堀を見ながら回って降りてくる。構造は柱も梁も全部がプレコン(プレキャストコンクリート)で松かさのような提案でした。そんな提案をなぜ短時間にひとりでまとめられたのかわかりません(笑)。
それで受かったのですね。
結局、2名が採用になりました(笑)。
第一工房にはどの位いたのですか。
13年いました。僕は独立心がないので第一工房で設計しているのがとても楽しかったですし、高橋(てい一)さんにもよくしていただきました。
色々なプロジェクトにタッチしていると思いますが、どんな作品を担当されましたか。
「佐賀県立博物館」などの佐賀県の作品とか、「大阪芸大」や「中部大学」、「佐賀県立コロニー」さらに筑波の「公害資源研究所」などを担当しました。
当時、第一工房にはどんなスタッフがいましたか。
僕より10年先輩の林昭男さん、素晴らしい人です。ほぼ同年代で事務所としては2年先輩の小谷部育子さん、同じ時期に大阪で入った陶器二三雄さんが4つ下です。
高橋さんはどんな方でしたか。
「神は細部に宿る」ような人ですね。
ミースの言葉ですね。
目鼻が付かないあたりではあまり力が出ないんですけれど、形になってきた途端に力を出してきます。ディテールでマスタープランまで変えてしまう力があります。
そうすると高橋さんに学んだことはどのようなことですか。
デザインは学んだつもりはないんですけれど、生き方を学びました。ひとつには「人には簡単に頭を下げるな」ということ。金や人に頭を下げたりはしない。間違った時には頭を下げるべきだけれど、ちまちましたことやお金に頭は下げない。入札にも参加しないと。
貴重な教えですね。それは今でも針生さんの中に生きていますか。
僕は一切入札をしていません。35年間ずっと入札を断っていますから、70件以上断っています(笑)。だから事務所経営が大変なんです(笑)。
素晴らしい!ずっと高橋さんの言葉が響いているのですね。
生き様としてはそういうことになりますね。だから大手の事務所さんが入札をしてダンピングをしているのを見ると、腹が立つんですけれど、腹が立っても仕方がないんですね。その高橋さんの姿勢は誰から学んでいるか知っていますか。前川國男さんです。だから高橋さんにはアーキテクトとしてのスピリットが細かいところまであって、それを学びましたけれど、デザインの手法は特に問題ではないと思っています。
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