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磯崎さんから学んだこと
学生時代から磯崎ファン
磯崎新氏
(渡辺さんが磯崎新アトリエ在籍時)
撮影:
MAKOTO SEI WATANABE/
ARCHITECTS' OFFICE
アトリエ在籍中に開いた個展、
「BLUE PRINT展」。
CG実用化以前の、
エアブラシの手技による青一色の
ドローイングの展示。
中央は八束はじめさん。
大学を卒業した後には設計事務所に入っていますね。
大学院を出た後に大高正人さんのところに3年いて、
磯崎(新)
さんのところに5年いて、それから独立ですね。
その辺の経緯を教えてください。
まず建築家のところに行きたかったのです。会社に就職するのではなくて。だけどまたこれが時代的にオイルショックの後で、大不況だった(笑い)。世の中どこも仕事がない時代で、大手ゼネコンもその年は採用ゼロとか、そういう情勢でした。振り返ってみると、大学に入る時には高校紛争が燃え盛り、入ったら大学紛争の焼け跡で、大学院を出たらオイルショックの大波を被った。何か、いつも恵まれない境遇(笑い)。それで今で言うアトリエ系も、当時アトリエ系という言葉はなかったですけれど、みんなあまり採らなかった。それでも磯崎さんのところにだけ行きました。そうしたら磯崎さんは「うちは今仕事がなくて、みんな本を読んでいます」と(笑い)。その年は実際に誰も採らなかったようです。どうしようかなという時に紹介されて、大高さんのところに行ったら、採るということだったので、入ったわけです。
大高さんは結構仕事をやっていたのですね。
そうですね。私が入った時には、「多摩ニュータウンのセンターの橋」を始めたところでした。駅の正面から続く、3列に分かれた幅40m近い歩行者専用の橋で、街のメインストリートになっています。学校を出て最初の仕事は土木系だったということですね。後で「飯田橋駅」の設計で土木と関わることになるわけで、そういう領域を体験させていただいたことは良かったと思います。それで3年いさせてもらいましたが、やっぱり磯崎さんのところに行きたいなと思って。
再チャレンジしたのですか。
そう(笑い)。その時に磯崎さんのところでは「つくばセンタービル」がちょうど始まる時だったのです。で採用すると。
それが取れた時だったので入れたのですか。
それは私にはわかりませんけれど、タイミング的にはそういう時で、私が最初に仕事に行った日に、磯崎さんがみんなを集めて「今日からつくばセンタービルの設計を始めます」と(笑い)。それでその担当で設計を3年やって、現場に2年行って、終わって本や展覧会の発表とかもして
、それで辞めました。都合8年の修行期間ということです。
渡辺真理氏
青木淳氏
撮影:筒井義昭
坂茂氏
六角鬼丈氏
藤江秀一氏
網谷淑子さん
(渡辺さんが磯崎アトリエ在籍時)
磯崎さんのところでは「つくばセンタービル」を担当したのですね。
磯崎さんのところでやったのは5年間であれひとつです。
磯崎アトリエでは、他に誰が同僚でしたか。
青木宏さん、伊東孝さん、
八束はじめ
さん、菊池誠さん、牛田英作さん、少しずれて当時はアメリカを担当していた
渡辺真理
さん、稲川直樹さん、等。後から
青木淳
さんたち、
坂(茂)
さんが一年間、城戸崎和佐さんも少し。私が入った時は確か全9名ほどだったと思います。当時は神楽坂の坂の上のボロっちいビルで(笑い)。ビルはボロくて小世帯でも、その頃は毎朝、神楽坂の坂を上がるのが楽しかったですね。
あの頃、
六角(鬼丈)
さんは辞めていましたか。
藤江(秀一)
さんはいましたでしょう。
六角さんは辞めた後です。藤江さんはチーフでした。後、秘書の
網谷淑子
さんが、みんなのお姉さんというかお母さんというか、そんな感じで、3時になると健康食品のティータイムでした。
磯崎アトリエで学んだことで、今でも役立っていることはありますか。
多分、アイドルだったのですね。磯崎さんは映画のセットをつくったり、建築をアートのように語ったりしていました。建築も、つくるとともに壊すとか変えるという表現が多かった気がします。いつも枠を取り払おうとする動きがあることが、新鮮でした。あの頃は、目の前に堅くて古い制度があって、それを体制と呼んだのですが、その体制を変えることが自分たちの使命だという思いが、多くの若い人たちに共通していたのです。今と違って壊すべき対象がはっきりしていた。いまでも古くて頑迷な仕組みは残っていますが、透明化して見えにくくなっている。当時は、変えてどこへ行くのかまだよくわからないけれど、とにかく変えなくてはいけないというのが共通の気分だった。それを政治の領域で行おうとしたのが学生運動です。私もデモに行きましたが、反対だけして対案を示さないでいいのかといつも思っていた。その学生運動は結局、壊したところで留まりましたが、磯崎さんは文化の領域で壊して新たにつくろうとしていた。当時の磯崎さんは主流に抗う反体制だったのです。あるいはそれはこちらの思い込みで、そういう思いを磯崎さんに託していたのかもしれませんね。だからアトリエの中での具体的なやりとりから何かを学んだというよりは、そういう存在に直接触れたということが、大きかった。憧れは、一度直接体験しておかないと、いつまでも残ってしまうでしょう。磯崎アトリエの5年は、成長の過程で必要な、通過儀礼だったのかもしれません。
渡辺さん自身の現在の活動の仕方がそうですから、そういうところが繋がっている感じがします。
今だと建築をしていて建築に留まらないという人はたくさんいます。あの時代はまだそうではなくて、領域に境目があった。他のジャンルについてあれこれ書いたり、活動したりする建築家は少なかったのです。