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   生物好きの建築家は学内ホームレスも経験?

事務所のスナップ
事務所のスナップ
撮影:MAKOTO SEI WATANABE/
    ARCHITECTS' OFFICE

では最初にいつ頃建築家になりたいと思ったのか聞かせてください。

日本では大学を受験する時に、
方向を決めることになりますね。私は小学生の頃から科学が好きで、科学者になりたいと思っていました。その中でも生物学が好きだったのです。当時の生物学というのはまだ分類が主体で、地味な領域だったと思います。生態学(エコロジー)という言葉ですらまだ一般にはあまり知られていなかった。そこにバイオニクスという新しい領域が登場してきたのを知ったのです。バイオニクスというのは生物のもつ仕組みを人工物に生かそうというもので、いまの生体工学やロボットにも通じています。これだと思いました。それで高校の生物の先生に「生物をやりたいのですが」と聞いたのです。すると「お前、生物なんかやっても食えないぞ」とまず言われました(笑い)。 それでまた考えました。絵が好きだったので、アート方面にも関心があった。科学とアートを両方できるところとなると、これは建築しかない。ということで建築に決めたのです。だからあの高校の生物の先生が「それはいい。生物学は将来有望だ」と言っていれば、建築家にはなっていなかったでしょう(笑い)。今頃はバイオテクノロジーの最先端を走っていたかもしれません。教師の一言は大事ですね。私も自戒しています(笑い)。

建築という発想が出てきたのは高校生の時ということは、それ以前は建築にはまったく興味がなかったのですか。
1歳11か月。
1歳11か月。
手に持っているのは奴凧、床上はグレイハウンドのバス。
撮影:MAKOTO SEI WATANABE/
    ARCHITECTS' OFFICE


建築家という職能自体を知りませんでしたから。近所にいなかったし(笑い)。ただ小さい頃からいつもいろいろなイメージを頭の中で組み立てるのが好きでした。それは街だったり、世界だったり、道具や飛行機だったり、するのですが、こういうのがあったらいいな、これはこういう仕組みになっていると考えてそれを絵に描く。そういう設計図的なものを描くというのは、教えられたわけではなく勝手にやっていました。ただそれが建築という職能に結び付いたものだという意識はなかったのです。

生物についてはかなり小さい頃からですか。

私が生まれてから3歳頃までは、コンクリートの固まりの中でした(笑い)。

それはどういうことですか。

地面に接地していないところ、多分5階位の、自然がほとんどない人工環境で、その後地面に着地した家に引っ越ししました。そこで初めて土というものに触れたのです。土には虫がいました。ダンゴムシとの遭遇(笑い)。拡大すると「風の谷のナウシカ」の王蟲によく似た生き物です。夢中になりました。3歳までは存在していなかった、新世界を発見したのです。


僕は子供の頃にザリガニを採ったりしていましたが、そういうことをやっていたのですか。

それ以後はやりました。私もザリガニ釣りはやりました(笑い)。

それからずっと生物を好きで来たわけですか。

今に至るまで(笑い)。


確か大学は横浜国大でしたね。その選択というのは。

私が大学を受ける時はいわゆる学園紛争の末期の状態で、私の高校も高校紛争があって、学生がストライキをして、今度は学校側がロックアウトして、ということをやっていたのです。あまり一生懸命勉強をするような状況ではありませんでした。それで東北大と横浜国大を受けたらどちらも受かって、家から通えるので横浜にしようと。


横浜国大の先生は誰になりますか。

長島孝一氏
長島孝一氏
影響が大きかったのは、大学院の時に非常勤講師できた長島孝一さん。当時長島さんはハーヴァードから帰ってきて、槇(文彦)さんの事務所にいて、若くて元気でした。実際はそんなに若くはなかったとは思いますけれど(笑い)。
高校紛争からやっと卒業したら、入った大学も紛争の末期状態で荒廃していました。学生運動はいろいろなものを壊したけれども、その次のものを何も構築していなかった。その戦後の荒涼とした中に長島さんは颯爽と舞い降りてきたという風情で。私の設計をすごくいいと言ってくれて、やっぱり学生は褒められると、喜びます(笑い)。大学院では好きなことをやらせてくれたので、それは楽しかったですね。

大学時代にクラブ活動は何かしていましたか。

一応写真部で、今と違ってデジタルではなく銀塩ですから自分で現像して、展覧会とかをしていました。後、今はもうないですが大学の製図室というのが結構面白くて、大空間でした。河合正一さんという亡くなられた教授が設計した建築棟の最上階が体育館的な一室空間で、そこに自立型の可動間仕切りがたくさん用意されていました。それを悪用して、学生たちは籠城するような、子供の秘密基地のようなものを勝手につくって(笑い)、そこに住んでいる学生もいました。中には2階建てのものもあって、学内セルフビルド住宅展示場でした。

ホームレスですね(笑い)。

そう!学内ホームレスの縄張りが、その体育館的製図空間にいくつもあると。全員が寝泊まりしているわけではないですよ(笑い)。そういう人もいるし、勝手に展覧会をやる人もいるし…というような良く見れば自由な活動、悪く見ればデタラメ(笑い)。大学はこれによっぽど懲りたのか、その後、今の敷地に移転した時、製図室は小さな個別の部屋に分けてしまいました。昔のあの建築棟は、河合さんの少し早過ぎた傑作だったかもしれませんね。

その写真はないですか。

残念ながらないですね。当時はそれがいいものだとは自分たちでさえ思ってなかったですから。キタナイし(笑い)。写真なんて撮りませんでした。そういえば写真部でしたのにね。

大学時代に建築以外の他のジャンルで好きなものはありましたか。

絵を描くとか、映画を自分でつくるとかはしていました。写真はどうも暗室に閉じこもるのが性に合わなくて、あの頃デジカメがあったらもっとやったと思います。


  
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