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■ 建築家になった理由
ポストモダンの貴公子は田舎に下る
隈さんは東大卒業後、大手設計会社に入りましたが、アトリエ派の先生のところに入るという考えはなかったのですか。

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槇 文彦氏
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学生時代には学部から院までずっと槇(文彦)事務所でバイトをしていて、まだ槇さんは東大の先生にはなっていなかったんだけれど、槇さんとはすごく親しかったんです。
普通そのまま事務所に入るじゃないですか(笑い)。

普通そのまま入るんだけど、ひとつには槇事務所はすごく大変そうだなというのもあったんです(笑い)。デザインの先生は芦原先生なんだけれど、学部の研究室は内田(祥哉)研究室に行ったんです。大学院では原(広司)研究室に行きました。
いろいろな先生と交流があったようですが、隈さんの師匠というのは。

今、名前を挙げた人はみんな師匠です(笑い)。
複雑ですね。

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住吉の長屋
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いろいろな先生を知ってみたいなという感じの、好奇心旺盛な学生でしたから。原研究室に行ったら、同期に竹山(聖)が京大から来ていて、彼らはこれからすぐ独立してアトリエ的にやるという感じで盛り上がっていた時期だったんです。ちょうど世の中の空気としては、安藤(忠雄)さんが「住吉の長屋」をつくった直後で、コンクリート打放しのアトリエ派っぽい住宅が一番カッコいいという感じでした。僕はひねくれていたので(笑い)、みんながそっちに行ったから、逆に「これからは社会だと思うぜ」みたいなことを言って、大手に行ったんです。
確か「コンクリートには絶対に行かない」と言っていましたね(笑い)。それで社会派的に大手に行ったのですね。大手に行ったメリットはありましたか。

いろいろな人がいるなと思った(笑い)。学生の時に知り合う人間って、例えば建築家で槇さんや芦原さんを知ったとしても、やっぱり限られた人じゃないですか。ましてアトリエで住宅をやっている連中なんて、その頃から伊東(豊雄)さんや毛綱(毅曠)さんのところへ遊びに行っていたけれど、やっぱり限られた人です。社会から見るとバラエティがあるようでいながら、あるレンジの中に納まっているじゃないですか。ところが大手に行くと本当にいろいろな人がいるんですよ(笑い)。デザイン部だけではなく、監理部なんてところがあって、その監理部の人達が結構いい味なんです。どういうふうにしたら、うまく職人を使えるか、そういう人達の施工業者の使い方とか、接し方とか、実に惚れ惚れします。「このおやじ、やるな!」という感じの人達がいるわけです(笑い)。そういういろいろなおやじ達に会ったことが、自分にとってはすごくいい経験だったと思います。
その話を聞いていると、隈さんには材料へのこだわりがあって、それがどこから出てきたのかと思っていましたが、その辺りに秘密があるのかもしれません。

その時のそういう体験は大きかったですね。
会社はどこでしたか。

最初は日本設計で、次に戸田建設。
大手設計事務所とゼネコンの両方。そして現在自分でアトリエ派もやっていますから、全部経験したわけですね。

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フィリップ・ジョンソン
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そうそう。学者っぽいのも見ています。その後すぐにアメリカにも行ったじゃないですか。アメリカでは『グッドバイ・ポストモダン』というインタビュー本を出しました。その時にフィリップ・ジョンソンから若手まで、インタビューをして回ったんです。それぞれの事務所を回って、事務所の中を見せてもらって、だいたい仕事のやり方はわかります。日米のいろいろな仕事のやり方をほとんど見た気がします。
それは大変プラスになる経験でしたね。独立されたのはいつ頃でしたか。

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M2
撮影:淺川 敏
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ドーリック
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ADK松竹スクエア
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1986年です。
隈さんが「M2」「ドーリック」を設計していた時代、確か毛綱(毅曠)さんだったと思いますが、「隈さんはポストモダンの貴公子だ」と言っていました。それはご存知でしょう。

初めて聞きました(笑い)。
その貴公子が、著書も『10宅論』『グッドバイ・ポストモダン』で、作風も変わっていきましたが、あのあたりでは自発的にそういう方向に進路を変えていったのか、あるいは時代的にポストモダンが衰退していって、それに合わせていったのでしょうか。

ポストモダンが衰退した頃はバブルの経済が弾けて、本当に仕事がなかったんです。東京の仕事は「M2」以来、ほとんど10年間くらいしていないと思います。「M2」が91か92年なんだけれど、それから次に東京の仕事をやるのは「ADK松竹スクエア」で、あれまでの10年くらいブランクだと思います。それぐらい東京の仕事はしていません。
それは知りませんでした。

その時にやっぱりいろいろ考えた。地方の小さい仕事、高知の仕事とか、愛媛の仕事とかを頼まれて、そういう自然環境の中で初めてやってみて、その場所にあった別の方法論がありそうだなと、木を使ってみたり、建築を土に埋めるとか、それまでとはまったく違う方法を試してみたら、それが自分にとってもデザインしていてすごく楽しくて、建築ってこんなに面白いんだという感じでした。そのうちに、
地方で身につけた手法が使えると東京の仕事も出てきたということです。
実際ポストモダンも衰退してきましたね。

「M2」をやっていた頃は、伊東さんがエキスパンド・メタルをバンバンやり始めた頃で、ああいうエキスパンド・メタルみたいなものにみんなが行っていました。でも僕は「M2」をやっていた頃も基本的にはみんながやっていることはやりたくないという感じでやっていたから(笑い)。
そういう反骨的なところがあるんですね(笑い)。
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