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■ デザインを始めるきっかけ
頼まれてからスタートした建築デザイン
今、先生は建築家でしょう。ずっと以前から設計もやろうと思っていたのですか。

今は設計もやっていますが、それはなかったですね。デザイン能力はあると思っていました(笑い)。それは卒業設計が結構なレベルでしたから。橋の作品ですが今度の展覧会に出しています。伊東(豊雄)さんがあれを見て、「卒業設計を自分の作品展に出すやつは、滅多にいない」と言われたもん(笑い)。
余程自信があるということですね(笑い)。

自信があるというか、今やっていることと非常に繋がっているという感じがありました。
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ピーター・クック |
川が汚染されているので空中に仕掛けた提案ですね。

ああいうところはイギリスのピーター・クックの影響を受けているんです。
アーキグラムですね。デザイナーとしても自信があったけれど、歴史をやったわけですね。

ただ実際に設計をやることになるとは思っていなかった。
建築家のライセンスは取得しているのですか。

いや、取っていないです。別に実施設計をやる時にはOBと一緒にやればいいんです。
丹下さんも持っていなかったという話を聞いたことがありますが・・・・・。

そんなことはないでしょう。丹下さんの世代は自動的にくれた世代でしょう。建築士制度ができた時に、すでに実務をやっていた人達全員にくれましたから。だってそうしないと、前川國男も坂倉準三も困るじゃない(笑い)。
実際に図面などはどこで描いているのですか。

大体食卓とかでやっています。ご飯を食べた後(笑い)。あとは飛行機に乗っている時。海外出張なんかはいいですよ(笑い)。
器用ですね。「タンポポ・ハウス」には書斎がありますが、あそこではやらないのですか。

あんまりやらないね。そこでは原稿を書いています。原稿を書くのが仕事ですから(笑い)。設計よりは原稿を書くのがやっぱり忙しいんです(笑い)。
設計の時の相棒というのは。

大嶋(信道)くんとか、内田(祥士)くんとか、いろいろです。仕事によって大分違います。遠い時には地元の人にやってもらいます。
藤森先生というのはマルチ人間ですね。

結果的にいろいろやっているうちになったんです(笑い)。
まず教えています。書いています。講演をします。それからコミッショナーのようなこともします。展覧会もやる。建築デザインもやる。これだけこなすのには相当忙しいと思いますが、身体は大丈夫ですか。

やっぱり60歳になって、大分故障が出てきていますね(笑い)。
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神長官守矢史料館 |
でもお若いです。建築のデザインはどうしてやることになったのですか。

それは田舎の「神長官守矢史料館」を頼まれたんです。まず神長官の先代は僕の名付け親だし、当代は幼馴染みです。それで本人からではなく、市役所から相談を受けたんです。
それまでに建築設計はやっていませんでしたけれど、身近だったので頼んだのでしょうね。

建築の先生だということだから、普通の人はごっちゃになっているんでしょう(笑い)。建築の先生と言えば、設計をする人だと思うよね。構造とか、歴史とか、設備とか、建築の中にはいっぱいあるけれど、普通の人は細かい区分なんて知らないですよ。
最初に頼まれた時にはどう思いましたか。

自分が引き受けないと、僕は他の建築家を紹介することになるわけです。誰を紹介するかというと、伊東さんなんです。伊東さんのお父さんというのは諏訪大社(下社)に大きな貢献をした氏子さんですから。諏訪大社がもっている博物館は伊東さんのお父さんがリードしてつくったんです。当たり前だけど、神社というのはそういう人を大変喜ぶわけ。そうすると伊東さんを推薦するのが一番妥当になるわけ。でも諏訪大社(上社)の筆頭神官の守矢家がやっていることは原始的過ぎて、伊東さんのデザインと合わないんです(笑い)。だって鹿頭を神様に捧げるようなことをやっているわけですから(笑い)。その時にそんなことができる人は僕しかないと思ったんです(笑い)。僕は子供の頃から守矢家が縄文時代のようなことをやっていたことを知っていましたから。
それが先生のデザインのスタートですね。

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タンポポ・ハウス
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ニラ・ハウス
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一本松ハウス
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養老昆虫館
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ラムネ温泉館
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茶室徹
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そうです。それで設計することにしたわけですが、ものすごく面白かった!一部だけれど、同世代の連中はみんな評価してくれました。年上の人からは全滅でした(笑い)。試しに学会賞に応募したら、ひとりだけいいと言ってくれました。それは渡辺豊和です。忘れもしない(笑い)。名前はもう忘れたけれど、他の9人は全然ダメでした(笑い)。
そして「タンポポ・ハウス」ですか。

その後にやっぱり設計をやりたくなったんです(笑い)。でも注文は来ないですから自分の家でやるしかありません(笑い)。
ちょうどご自宅が建替えの時期だったのですか。

大野勝彦さんの「セキスイハイムM1」に住んでいたんですが、そこに一生住むとは思っていませんでした。コンテナみたいな家で、当時の一般住宅の半値以下でした。「タンポポ・ハウス」の建替えを見て赤瀬川(原平)さんが自宅を頼んでくれました。
赤瀬川さんとの繋がりはその前からあったのですか。

その前から「路上観察学会」で。「路上観察学会」ができて5年目に僕は設計をするわけだから。
「神長官守矢資料館」を頼まれて、自邸の「タンポポ・ハウス」をつくったら、人脈で赤瀬川さんの自邸の仕事がきたのですね。

「秋野不矩美術館」もきましたね。
「ニラ・ハウス」のニラの生育はどうですか。

生きていますけれど、根がいっぱいになってしまって、ニラの育ちが悪いんです。
僕は赤瀬川さんがニラを食べてしまっているのではないかと思っていました(笑い)。

ものすごく堅くて食べられないです(笑い)。
「一本松ハウス」はどのようにして仕事がきたのですか。

高取さんという石炭王ですけれど、戦後になって政府がエネルギー政策を石炭から石油に変えるまでは石炭王として大変な力をもっていた方で、その人の明治期の住宅を国の重要文化財にする時に僕がちょっとお手伝いしたんです。それで僕のことを知ってお願いされました。
では仕事はグングンくるようになった感じですか。

いやいや、グングンは(笑い)。今でも年1回位です。
今は多いでしょう。

そんなことはないですよ。不思議なもので、ああいう建物を頼もうという人が年にひとりずつくらいいるのが日本の面白いところです。絶えはしない。だけど増えもしない。細々と(笑い)。
近作では「養老昆虫館」「ラムネ温泉館」「茶室徹」などがありますが、完成された作品はいくつありますか。

14〜5ですか。
先のプロジェクトもあるでしょう。

ちゃんと設計をしているのは住宅をふたつです。僕のようなつくり方をしていると、それくらいが限界ですね。やっぱり材料を探したり、工事をしたりというのが楽しいですからね。手間がかかります。
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