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建築家になった理由
   少年時代の職人さんの手伝いが契機で建築の道へ


藤森先生の産地はどこですか。

長野県の茅野市というところです。1946年生まれです。

建築家になった理由には小さい頃の記憶と結びつくところがありますか。

それはどこかやっぱりあります。母方が割と大きな棟梁でしたから、そういうものは子供の頃から見ていました。一番大きいのは小学校2年生の時に江戸時代の家を建て替えたことです。その時に母方の大工さんの系統の人達が家に泊り込んでいたんです。1年間。僕は小学校2年生だったけれど、学校から帰ってくると手伝わされたんです。もちろんかたづけとかですけれど、割と本気の仕事の手伝いをさせられたんです。土を運ぶとか、カンナ屑をかたづけるとか。遊びに行けないからイヤだったけれど、すごく身に付きましたし、やっていること自身は面白かったですね。今でも職人さんの仕事を見ていて、職人を特別尊敬する気持はないんですね。自分もむしろ職人だという感覚のほうが強いわけです(笑い)。家をつくる時の僕の感覚は、子供の時に職人の手伝いをした感覚なんです。

それは面白いですね。その経験が建築の道へ行くひとつのきっかけでしょうか。

そうだと思いますね。

子供の頃には設計というよりも、職人さんの世界が建築だと思っていたのですね。

今でもそう思っています。建築家はいらないですよ(笑い)。だってつくる人がいればできるじゃないですか。たまたま分けていますけれど、大工さん達というのは建築家と施工業者を兼ねていました。特に棟梁というのは。それが理想だと思います。

できた家というのは大きいものだったのですか。

壊した江戸時代の家と同じくらいでしたね。今の普通の家よりずっとデカイですね。

「タンポポ・ハウス」の何倍くらいですか。

「タンポポ・ハウス」が43坪でしたから、70坪位あるんじゃないかな。お蔵など古い時代のものを入れるととんでもなくデカイですよ。

「高過庵」はその長野のご実家の敷地にあるのですか。

そうです。そこの山のほうの畑にあります。
藤森先生の幼少時の写真

藤森先生の幼少時の写真
藤森先生の幼少時の写真

大工さんの手伝い以外に小さい頃にはどんな遊びをしていましたか。悪いことはしませんでしたか。

子供の時には悪いことしかしなかったですよ(笑い)。悪いことだけが楽しいんだから。

殺生などはしませんでしたか。

載せられないようなことがいっぱいあります(笑い)。

このインタビューに登場していただいた建築家のひとりは、蛙のお尻に花火を入れて爆発させたと言っていました。

そんなのは当たり前のことです(大笑い)。

僕は蛙を剥いてザリガニを捕る餌にしていました。

それはれっきとした生産行為ですからね。縄文時代の人はみんなそうやっていましたから(笑い)、その名残りです。

縄文的少年時代ですか。先生はどんな遊びをしていましたか。

小鳥とか、子猫とか、そういうものの殺戮の話はまずいでしょう(笑い)。

鳥はかすみ網や鳥もちで捕りましたね。

僕は吹き矢や空気銃を使いましたね(笑い)。

殺生の話はこれくらいにして。学校では女の子にモテましたか。

僕たちの頃には女の子と遊ぶということはなかったからね。女の子になんてモテたら、バカにされるよね(笑い)。

中学、高校ではどうですか。

あまりモテたという思いはないね。

ではクラブ活動は何かしていましたか。

いろいろやっていたけれど、あまり熱心にやったことはない。中学では絵でしたね。高校では心理学研究会。

それは珍しい。スポーツはやっていませんか。

スポーツは特別やらなかったですね。

大学は東北大学でしたね。これはどういう選択だったのですか。

僕の高校では一般的に東北大学へ行っていたんです。長野県なんですけれど。どうしてか知らないけれど、多かったですよ。

建築科の選択というのは。

工学部へ入って、2年生で建築学部を選んでいますが、やるんだったら建築だろうと思って工学部へ行きました。

その後、東大の大学院へ進んだのは、やはり東京へ行ってみたかったのですか。

その時には歴史をやろうと思っていました。近代をやろうと思っていたんで、村松先生が一番高名な近代の先生でしたから。

それはすんなりと入れたのですか。

一応フランス語とかやらなければダメなんで、慌ててやりましたね(笑い)。

東北大学、東大大学院での同期の建築家は。

建築家であまり有名になったのはいないけど、歌手では小田(和正)が一緒でした。

へぇー!彼も東北大学の建築科だったのですか。

そうです。その後、早稲田の大学院へ行きました。

早稲田の大学院も建築ですか。

そうです。ヴェネチアの帰国展に来てくれたんだよ。『日経アーキテクチュア』がいつも出しているものではなくて、建築家向けの特集号を出すんで、小田と話せと言われて、久しぶりに会うことになったんです。それで来てくれて、話して、そうしたら早稲田には入ったけれど、入った時点では歌手になろうと思っていたようです。途中で建築家の道は捨てたと言っていました(笑い)。学生時代から歌はやっていて、全国的なコンテストで2位になっていましたよ。

彼は年齢の割に高くてすごくいい声ですよね。

顔も「どこが60だ」みたいな顔をしています(笑い)。じじいのくせに(笑い)。でも声はいつ出なくなるかいつも心配だったと言っていました。どっかで出なくなるんでということを言っていましたね。

結局、褒めているのですね。

若い頃からああいう歌でした。学生時代には地味な歌だと思ったな(笑い)。これでやっていけるのかと(笑い)。

今ではすごいですよね


  
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