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■ 留学時代
イエール大学へ留学して新古典主義に染まる
イエ−ル大学を選んだ理由は。

プリンストンとハーヴァードにも興味があったんだけれど、結局ハーヴァードからはアドミッションがもらえませんでした。
イエ−ル大学に留学した建築家にはどんな方がいますか。

岡田(新一)さんがポール・ルドルフの頃に行っています。早川(邦彦)さん、高木(幹郎)さんが、それから石井和紘さん、みんなチャールズ・ムーアの頃です。ルドルフの次がムーアで、ムーアの次がシーザー・ペリでした。ですからイエールのディーンには、当代きってのアーキテクトが来ていました。その後はちょっと学者のような人が来ているけど。人数的には1学年に大学院のマスターを取ってきたセカンド・プロフェッショナルの学生が7人しかいませんでした。ハ−ヴァードなどはもっと人数が多かったですね。
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ルイス・カーン
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イエール大学
ブリティッシュ・アート・センター
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イエール大学 アート・ギャラリー
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ヴィラ森井
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能美島ゲストハウス
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日本橋室町プロジェクト
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日本橋三井タワー
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東京駅のドローイング
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イエール大学のキャンパスには名作がたくさんあるじゃないですか。好きな作品はありますか。

僕はルイス・カーンの「ブリティッシュ・アート・センター」が断トツに素晴らしいと思いました。イエールに着いた時に、いろいろな建築を見ようとイエールの地図を買ったんですけれど、そのブック・ストアが入っている建物が「ブリティッシュ・アート・センター」でした(笑い)。その反対側にカーンの「アート・ギャラリー」があって、それもいいけれど、やっぱり「ブリティッシュ・アート・センター」のひんやりした空間は、シンプルなやり方で、ものすごく古典的な空気が流れていて、本当に素晴らしいと思いましたね。
カーンはイエールで教えていたのですか。

カーンはディーンとして呼ばれたみたいでした。だけど結局はディーンになりませんでした。
作品だけをつくっているのですか。

そうですね。イエールの中で一番重要なものをつくっていって、けれどもディーンにはムーアがなっています。
そうするとディーンにはなっていませんけれど、教えてはいるのですね。

教えていたと思います。ですから石井和紘さんなどは、カーンにも習っていると思います。
イエール大学時代にはどのようなものに興味がありましたか。
 コーリン・ロウが『コラージュ・シティ』という本を出していますが、僕はそういう多元的な都市観というものに興味がありました。都市にはいろいろなものがパッチワーク状にあって、それらが等価に共存しているという都市の認識だったと思います。その中の秩序はひとつだけではなくて、境界領域にもうひとつの秩序が宿ると考えるようになりました。それについての議論をイエールの先生や学生とした時に、ものすごくヒステリックな反論を受けました。コーリン・ロウのような人は出てきていたけれども、彼らは基本的に一神教的で、ひとつの秩序が拡張していくのがいいと考えているのです。多神教的なものを認めることができないのです。彼らの神はひとつなんです。これは宗教的なことかもしれないと思いました。今に見ていろ(笑い)、日本に戻って、実際の都市計画なり、建築なりで、それを必ずやってやると思っていました。
いいですね。
 それからもうひとつは槇さんの時の教育とは違って、当時ポストモダニズムが隆盛を極めて、少し傾きかけている時で、僕の配属されたスタジオはすべてネオクラシシズムでした。アルゼンチンのアグレスト&ガンデルソナスの理想は3年間の建築教育で、1年生はパラディオのコピー、そして一切自分の言葉を使ってはいけない、パラディオの言語を徹底的にコピーする。2年生でパラディオとベルニーニのコピー。3年生でその応用をやる。つまりモダニズムは100年もない歴史で、言語構造の文法がしっかりしていないと。彼はソルボンヌ大学で言語学を学んだロランバルトの弟子ですから、建築を見た時に新古典主義こそがもっとも言語としてしっかりしたものだという考え方でした。僕はそういう新古典主義の教育を受けたので、アメリカから帰ってきてからの作品、「ヴィラ森井」「能美島ゲストハウス」などは全部シンメトリー。新古典主義の言語というのが自分の身体にしみ込むと、いかに強力か。それを自分の中から脱色するのに5年くらいかかりましたよ。
それは知りませんでした。
 そういう意味では、僕はモダニズムの言語を客観的に見れるようになって日本に戻ってきました。
今では新古典主義の教育は脱色されたのですか。

今、日本橋室町のトロウブリッヂ&リヴィングストンの「三井本館」とシーザー・ペリがやった「日本橋三井タワー」や横河民輔の「三越本店」がある街区の反対側で、マスター・アーキテクトをやっています。日本橋の中央通りの西側は400mくらい整備されていますが、それはすべて新古典主義です。それに合わせるのを今やっているんです。それこそエンタブレチュアとか、コーニスとか。その頃学んだ建築言語が役に立っています。このネオクラシックな東京駅のドローイングは駅長に頼まれて学生の頃に僕が描いて、東京駅の駅長室に飾られていました。
そうだったのですか。新古典主義は根に残っているのですね。

槇さんは完全なモダニストで、モダニズムの新しいページを開こうという方です。基本的に新古典主義というものを否定すると思います。言語というのはモダニズムの言語もあるけれど、新古典主義という言語もあるのであって、文法は新古典主義のほうが体系化されています。新古典主義がつくった街並みとか、江戸や京都の町屋とか、そういう古典的なリズムをもっている街並みのほうがいいじゃないですか。現代建築がつくった街並みでこれはというものがありますか。槇さんがモダニズム的な言語でつくったのが「代官山ヒルサイドテラス」で、それは新古典主義的な要素が一切ありません。これは例外的な成功例だと思います。僕が今直面している日本橋室町の街並みは相手が新古典主義ですから、その文法は親しく接してきた自家薬籠中の言語でもあるんです。
團さんはイエールから帰ってきてから、どこかの事務所に入っていますか。

僕は入りませんでした。入らないで、そのまま独立しました。イエールに行く前、すでに大学院を出た時に、実務をやっていました。ちょうどハンガリーから留学していたジョージ・パルフィが大学院を終えて、しばらく日本でやりたいと言っていました。それで神田神保町のすずらん通りにビルを探して、パルフィとふたりで事務所を始めました。現場があったにもかかわらず、僕はアメリカに行ったり、戻ったりして、留学した後に「南青山の住宅」は完成しています。
事務所はずっとあったのですね。

それはアーキ・スタジオという有限会社でした。
それで留学後、またそこに戻ってきたのですね。

そうです。アメリカに留学していた頃、青島(裕之)くんという東大時代の同級生と会いました。彼は岡田新一さんのところを出て、コロンビア大学に留学していました。僕が1年先に卒業して帰ってきて、彼はロバート・スターンのスタジオにいて、これからウィーンのハンス・ホラインの事務所に行くというので、戻ってきたら一緒にやろうかという約束をして、僕は3、4年待っていたんです。彼が戻ってきたので、團・青島建築設計事務所をつくって、元のアーキ・スタジオから場所を移しました。でもジョージ・パルフィとは今も親しくしています。
青島さんとはどのくらい一緒にやっていたのですか。

青島くんとは10年くらいやっていたんじゃないでしょうか。
『新建築』には團・青島作品がよく掲載されていましたね。

そうですね。ただ團・青島建築設計事務所というのは、青島くんが取ってきた仕事は青島くんがやって、僕が取ってきた仕事は僕がやっていました。スタッフは青島くんのプロジェクトをやったら、次は僕のプロジェクトをやるというように交互にやっていていましたので、ふたつの事務所が共存していた形です。
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