COM-ET Home > 淵上正幸のアーキテクト訪問記 > 團紀彦氏を肴にする > 建築家になった理由

建築か紹介
湘南の思い出
建築家になった理由
留学時代
團さんの作風
海外への視点
信念に従った勝利
個人的な趣味・嗜好
建築作品ギャラリー

Home
建築家になった理由
   コルビュジエのスケッチに触発される


大学は東大ですが、建築を選ばれた理由は。

僕は音楽家の息子です。下からずっと公立の学校に通っていましたが、入った葉山小学校の校歌が自分の父親(=團伊玖磨氏)の作曲でした。朝礼になると「あいつのおやじがつくった校歌だ」と言われて、そういうのがイヤで、とにかく音楽だけはイヤでした(笑い)。今は聞くことは好きですけれど、残念なことにピアノもろくに弾けないし、ギターもろくにできない。そういうコンプレックスがありました。そのうちに数学や物理が好きになりましたけれど、すぐに建築にいこうと思ったわけではありません。

東大では入学してから建築を選ぶのですよね。

2年くらいしてから、進学振分けというのがあって、その時に選ぶんです。興味があったのは、物理学とか、数学とか、宇宙工学とか、都市工学でした。なんとなく建築というのは大金持ちの家ばかりを建てる感じでイヤだなと思っていました。もう少し公共的なことをやるのであればなどと考えていくうちに、建築学科に入ったんですが、すぐにいろいろな建築家のパースを描かされたり、毎週末に皆で建築の見学に行ったりしました。そういう集団行動が本当にイヤでしたし、小さい頃から建築を志していた人間ではないですから、建築学科に入って、すぐには建築を好きになれませんでした。それでやめようと思って、真剣にいろいろな人に相談したこともありました。もう1度早稲田に入って新聞記者になろうとかね(笑い)。まあテニスなんかをやりながら、若干だらしなく建築は続けていたんですが、コルビュジエのスケッチを本屋で立ち読みしているうちに、建築を続けようという勇気が涌いてきました。コルビュジエのスケッチにはすごく影響を受けました。あんな大建築家のスケッチを見てホッとしたという言い方をするのは、非常に僭越だけれど、建築にもいろいろな生き方があるんだと思いました。

磯崎 新氏
磯崎 新氏

学業のほうはいかがでしたか。

大学時代の設計は、4年生の最後まであまり評価されませんでした。作品をつくって、プレゼンテーションして、全然評価されないと、だんだんやる気をなくしてしまいます(笑い)。ダメかなと思ってしまいます。最後の課題の時に、磯崎(新)さんが課題を出しに来られて、確か大学の1号館の改修がテーマでした。それで磯崎さんのスタジオに入って、それをやりましたが、それも土壇場まであまりうまくいかなくて、発表の前日にあることを思いついて、それを持って行きました。発表ではあいうえお順に3人ずつ図面をパネルに貼って説明をして、それに対して先生がクリティークをするんです。そうすると僕はだいたい先生から何も言われないで、鐘がチーンと鳴って、はい次となってしまうんです(笑い)。当時、芦原(義信)先生が主任教授でしたが、僕らの代では佐藤尚巳くんが圧倒的に優秀で、まず芦原先生から「佐藤くんのはいいね」という第一声がありました。4年の最後の課題でしたから、それまでに1回も褒められない奴は設計を諦めたほうがいいという噂でした(笑い)。チーンと鳴ってもうダメだと思った時に、磯崎さんが立ち上がって、僕の図面のところに歩いてきて、「これ、いいね」というようなことを言ったんです。そうしたら他の先生も「いいね」となって、そんなものかと思いましたけれど(笑い)、本当に嬉しくなりましたね。厳しさも必要だけれど、たまには褒められないと(笑い)。1回も褒められないと希望を失います。

土壇場ですね。

そうです。4年の最後の課題でした。そんなことがあって大学院へ行って頑張ろうかと思いました。

そういう意味では磯崎さんは恩人ですね(笑い)。その話を磯崎さんにしたことはありますか。

昔、磯崎さんのことを書いてほしいと頼まれた時に、そのことを書いていますので、磯崎さんはそれを読まれたと思います。

それはいい思い出ですね。そして大学院へ進んだのですね。

大学院の受験は秋で、6月くらいから夏中ずっと勉強して、設計と学科がどうも主席だったらしいんです。

すごいですね。急に大学院で変りましたね(笑い)。

槇 文彦氏
槇 文彦氏

栗生 明氏
栗生 明氏

急に頑張っちゃって(笑い)。その当時、設計をやりたい学生は、原(広司)研に行くか、香山(壽夫)研に行くか、芦原研に行くんですが、芦原先生は退官されたので、次に誰が来るかと噂をしていたんです。磯崎さんじゃないかとか、岡田新一さんじゃないかとか(笑い)。僕は早稲田から来た蜂谷(俊雄)くんと、現在日建設計で防災関係でトップの福井(潔)くんの3人で香山研になりました。4月から香山研が始まって、それから1、2カ月して突然、槇(文彦)さんが来られることになったんです。そして槇さんが僕ら3人の中からひとりをほしいとおっしゃったんです。昔、丹下(健三)研が建築学科の中で都市のことをやっていました。しかしいろいろな対立もあって、都市工学科ができた時に、丹下先生は槇さん、磯崎さん、黒川(紀章)さんを引き連れて、都市工学科の先生になって出てしまいました。だから建築学科の中で都市のことをやっている人がいなくなって、空洞化してしまったというのは、学生も知っていました。だけど学生は都市のことを勉強したがっていて、昔丹下先生がここでやっていたらしいという噂を聞いて、憧れていました。丹下先生が都市工学科に行った昭和44年以降に芦原さんが建築学科に来られて、芦原さんはすごく素晴らしい先生でしたけれども、都市のことへのまなざしは少なかった。少なくとも当時はそう思いました。もちろん『街並みの美学』は都市論・景観論として重要なものですが、僕が学生の頃にはまだ出版されていませんでした。だから槇さんが来られて、僕は都市の勉強をしたいので絶対に槇研へ行きたいと思いました。そして3人の中から僕が槇研へ行くことになりました。第1号院生です。そして助手が栗生(明)さんで、院生は僕ひとりでした(笑い)。

槇研はどんな感じでしたか。

カイガラテラス
カイガラテラス

槇さんは非常に厳しかったですね。僕の処女作「カイガラテラス」は、既存の建物に屏風のような、舞台装置のようなものを設えて、住宅だったものを喫茶店に変えるというものでした。これを槇研の時にやりました。これから工事をするという時に、この模型と図面を槇さんに見せたんです。そうしたら、「團くん、これは雨漏りする」と言うわけです。「いや、しないように、矩計図を描いてやっています」とか、「雨漏りしないようにちゃんと考えてやっています」とかいろいろ言ったんですけれど、それでも「これは雨漏りするんだ」と言われて、だんだん険悪なムードになってしまったんです。そのうちにあのクールな感じで「君、雨漏りしたらどうするんだ。建築家は雨漏りしたら、地べたに這いつくばってぞうきんがけをするんだよ」と言うわけです。恐かったですね(笑い)。僕はその時によくわからなかったんです。とにかく自分が嫌われているんだと思ってしまいました(笑い)。その後、修士論文を修士設計に変えたいという時にもえらく怒られて、これは早くアメリカに行かなくてはいかんと思って、僕はアメリカに行くことにしたんです。ただ「調停による都市認識論」というのが、僕の修士論文ですが、それは槇さんから非常に評価されました。「学生の分際で実務を無防備に受けて、君は建築家の責任をどう思っているのか」と、あの時におっしゃっていたんだと今は感謝しています。でもその時には「君、いいじゃない。頑張れよ」と褒めてほしかったんです(笑い)。

それは学生の時に設計した実作品なのですね。他にも学生作品があるのですか。
シカゴ・トリビュ−ン・タワー
 
團さんの「シカゴ・トリビュ−ン・タワー」案

 
代官山ヒルサイドテラス
 
代官山ヒルサイドテラス


もうひとつ東京の青山に大学院時代の作品があるんです。その時にはすでに後輩がいたんですけれど、恐いから先生に模型を見せられないんです(笑い)。それから不評をかったのが、「シカゴ・トリビューン・タワー」のためのドローイング展での時です。その展覧会には日本から木島(安史)さんと安藤(忠雄)さんと槇さんが招待されていました。その案として、僕は槇さんの「代官山ヒルサイドテラス」に触発されて、一神教的な建築ではなく、いろいろなエレメントが共存するパッチワーク状の都市を描きました。「代官山ヒルサイドテラスの第1期計画、第2期計画をどんなふうにお考えになって、やられたのですか」と伺った時に、槇さんは「ジャズのアドリブみたいな感じだった」とおっしゃられたんです。起承転結を最初から予定してやったのではなくて、第1期の時には第2期がどうなるかわからない、第2期の時には第3期がどうなるかわからない。それはすごく刺激的で、僕もアドリブのようにいろいろな要素を編んでいくということを実験的にやってみたかったんです。それでそれを「シカゴ・トリビューン・タワー」の展覧会の案として、こんなのはどうですかと。そうしたら「君はよく恥ずかし気もなく、こんなことを」というようなことをおっしゃって、さらにだんだんこれはいかんという状況になってしまいました(笑い)。

今は仲がいいですよね。

やがて僕はイエール大学へ行って、帰って来てから10年くらいした時に建築学会か何かで子弟対談というのがあって、僕が槇さんの前座をやることになりました。30分くらい時間を与えられていたんだけど、恐いから5分くらいで繋いでしまいました(笑い)。ちょうど「八丈島のアトリエ」ができた頃でしたが、それを「見に行きたい」とおっしゃられたので、お連れしたんです。それからときどきテニスに誘っていただくようになりました。今はもう大丈夫です。ただそういう記憶があるために、槇さんは一生先生ですね(笑い)。

イエ−ル大学へ行った理由がそういうことだったとは知りませんでした。



  
もどる

Back
Copyright(C)TOTO LTD.All Rights Reserve