裁判官夫婦は田舎と都会の二重生活を選んだ

−キャシーおばさん

 ピーターにお別れを言って家を出る。
  「このテラスハウスには、他にも友達が
   住んでいるんだ」
ビルは、同じテラスハウスの4件隣のドアを叩いた。
突然お邪魔したにも関わらず、にこにこと家の中を見せてくれたのはキャシーおばさんだった。
 ビルとジュディスの長年の友人であるご夫婦。「ご主人は、マンチェスターで一番重要な裁判官」とビルが説明してくれた。そのため、もうじき定年退職らしいが、その後も色々と引き受けなければならない仕事があるらしい。二人はたった3ヶ月前にここに越して来たばかり。越してくる前に改築工事を行い、キッチンはまだ新しいのが届いていないので、地下室に仮設のものを置いて代用している。
 そんな、地位もお金も(多分)あるご夫婦が、なぜこんなに小さなテラスハウスに住んでいるのか。実は二人は、市内にあった大きな家を売って、代わりに二つ家を買った。一つは、カントリー・サイドに建つ大きな住宅。そしてもう一つが、このテラスハウス。定年退職して自由になって、資金的にも余裕が出来たら、カントリーハウスに移り住んで自然に囲まれた生活をするのがイギリス人の夢。以前本で読んだことはあったが、どうも本当らしい。しかし、ジュディスに言わせると
 「確かに、田舎はいいわ。でも、もっと年をとって体が不自由になったら、田舎は
  とても不便に感じられるわ。そのうち、また便利な町に戻りたいと思うのよ。
  でもそれは難しいの。
  田舎の家は都会の家を買えるほど、そんなに高くは売れないから。
  その点、彼らのように町に小さな家を残して田舎に移るのは、ベストの方法だわ」
ジュディスは、あまり田舎に住みたいとは思っていないらしい。但し、ジュディス夫婦はレイク・ディストリクトに別荘を持っていて、何かにつけその別荘に出かけ、田舎の生活も満喫している。田舎に軸足を置くキャシーおばさん夫妻のやりかた、街に軸足を置くビルとジュディスのやり方。どちらにせよ、街の生活だけには満足できず、資金的に余裕のある人達は、田舎の暮らしを自分達の生活に取り入れようとするらしい。しかし、都会の便利さを完全に捨て去るのはあまりにも冒険で、安全牌を残した上で、という条件がつくのが現実のようだ。


庶民住宅を贅沢に凝縮したミュージアム

 1階は、ピーターの家とは違い、フロントルームとバックルームがきちっと分けられている。伝統的なイギリス労働者階級住宅の間取りをそのまま残しているのだ(もちろん今住んでいるこの夫婦は、労働者階級ではないのだが)。また、家の間口はピーターの家より、いくらか広い。ピーターの家は一番端っこだから、多少寸法調整で削られているのだろう。

−キャシーおばさんの家の間取り


 フロント側の部屋、これはイギリスの伝統的な呼び方で「パーラー」と言う。日本の住宅で言うと床の間付きの客間、という感じ。狭い労働者階級の住宅の中で、家族のスペースを犠牲にしてまで、この時代必ず作られていた象徴的な部屋である。普段はほとんど使わないけれど、大切なお客様の接待、日曜日の家族の夕食等、特別なときだけに使われていたらしい。大切な置物とか、家族の写真をごてごてと並べる暖炉の回りも、日本の床の間の雰囲気に似ている。但し、そのような非日常的な使い方は、一昔前の話である。この家では、伝統的なパーラーの雰囲気を残しつつ、日常的なくつろぎの空間としても十分機能しているようだ。狭いながらも落ち着いたインテリアで、センス良くまとまっている。

−リビングルームに飾られた食器類

 リビングルームには、高級そうな食器がきれいに飾られている。食器類をむき出しで飾るのは、前回お話したように「ファーム・ハウス」キッチンの流れだろう。このようなディスプレーをしているお宅は多い。
ところで、飾られた食器は日常使われているのか。
ジュディス曰く
 「もちろん、使ってるわ」
 「でも、ホコリをかぶった食器を使
  う前にいちいち洗うのは、面倒く
  さいでしょ」
 「そんな事無いわ。軽く拭くだけよ」
だいだい予想された答えではあった。
 2階は、書斎らしき部屋と、主寝室。バスルームには、シャワーブースが設置されている。主寝室はやや狭いが、機能的な家具配置。プランを見ると窓が小さい気もするが、実際はさほど暗さを感じない。
代わりに壁面が多いので、家具の配置や絵画をかけるのに悩む必要がないようだ。書斎の机の前には、バックヤードを見下ろせる窓が気持ち良い。
 この他に、改築時、屋根裏に上がる固定階段をつけて、屋根裏を予備室として使えるようにしてある。また、地下室もかなり広い。ビルの話によると、マンチェスターでは20世紀の始め位まで、労働者階級のテラスハウスでも、みんな地下室がつけられていたとのこと。当時大切な燃料だった石炭を補給するのに、歩道のマンホールのふたをあけて、そこから石炭を投げ込めば、地下の石炭倉庫に溜まるようになっていた。だから地下室はこの手のテラスハウスにとって、とても重要なものだったらしい。もし地下室が無かったら、家中石炭だらけになって、労働者階級の貧しい生活はもっと悲惨なものになっていただろう。
 この訪問から数ヶ月後、どうしても出来上がったキッチンを見たかった私は、ジュディスにお願いして再びこの家を訪れた。キッチンは見事に完成していた。狭いながらも、ファームハウスの臭いのするキッチンである。さらに、前回は閑散としていたバックヤードが、溢れんばかりのグリーンに囲まれたくつろぎのスペースに変身していた。この小さなテラスハウスは、イギリスの庶民住宅をとても贅沢に凝縮したミュージアムのようだった。

−キッチン

−キッチン

−バックヤード