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建築家になった理由 ■■■ ふたりが建築家になったユニークな動機
塚本さんは僕と同じ神奈川県生まれのようですが、神奈川のどこですか。
:茅ヶ崎です。
幼少時代の塚本さん
幼少時代の塚本さん

幼少時代の貝島さん
幼少時代の貝島さん


貝島さんは東京でしたね。
この近くで大京町ですね。

小さい頃にはどんなことが得意でしたか。
:僕は昆虫採集と野球ですね。
私は人形遊びです。劇とか、物語をつくるとか、そういう遊びが好きでした。

それはまわりにあまり自然がなかったからですか。
それもあると思いますけれど、妹とすごく仲が良かったので、小さい頃には妹とずっと家で遊んでいました。毎日家の中で遊ぶのでそこで何か楽しいことを考え出していました。

中学や高校では何かスポーツはしていましたか。
:中学ではブラスバンドをやっていました。それと鉄棒をやっていました。高校ではハンドボールです。

貝島さんはどうですか。
スポーツはあまりやりません。
:文化部だね。
美術部で部長もやりました。

建築をやろうと思ったきっかけは。
:僕が中学1年のときに親が家の建替えをして、それを見ていたというのもあるし、近所に来る大工さんも面白そうだなと思っていましたね。それと僕が高校生のときに兄貴が東工大に入ったんですね。それで学校へあまり行かないで家で何かやっている。「図面を出せばいいの」とか言っているんで、面白そうだなと思ったんです(笑い)。

お兄さんも建築家ですか。
:今、兄貴は鹿島建設の社員です。

お兄さんの影響もあったのですね。
:そうですね。おやじも横浜国大の前身の横浜高校で建築をやっていました。

建築一家なのですね。
:でもおやじはそのあとに別の新生大学の機械学科に入り直して、金属の会社に入っていますから、建築一家ということではありません。

貝島さんはどうですか。
私は家を見るのが好きでした。家庭の事情でたくさん引っ越しをしていたんですが、新しい家を探すのも、毎回私がサジェスチョンしていました。私があまりにも「あれがいい、これがいい」とうるさく言うので(笑い)。子供の頃から家を新しく決めるのに付いて行って親に毎回意見をしていましたし、新聞の折込みやカタログを見るのも好きでした。とにかく引っ越しが多いので、新しい家を探すことが多かったんです。ですから住まい手としていろいろな住宅を見て回っていました。1回引っ越すのに少なくても10戸位は見て回りますから。

それが建築家になるきっかけだったのですね。
とにかく家が大好きでした。(笑い)

大学に入る前に何か印象に残る建築は見ていますか。
:兄貴が持っていた『a+u』に、多分淵上さんが編集していたんじゃないかと思いますけれど、リチャード・マイヤーの「ダグラス邸」が出ていました(笑い)。

それは僕が『a+u』を編集する前ですね。ミシガン湖のところにある住宅ですね。あれはかっこいいと思ったでしょう。
:あとはグスタフ・パイヒルの「オーストリア放送局」、山の中に埋もれているやつです。それからイングランドの野外コンサートホール、何も建築的なものがないランドスケープで、ただ芝生が盛り上がっているだけのやつもすごく好きでした。
絵画館
絵画館

慶應病院
慶應病院


貝島さんは何かありますか。
この側に住んでいましたので、外苑周辺にはよく行っていました。だから絵画館とか、絵画館前の広場とか。
:ハハハハ。絵画館が原点っていうのはいいよね(笑い)。
四ッ谷第6小学校というところに通っていたんですけれど、担任の先生は表に出て行って、どんぐりを拾ったり、散歩をしたり、絵画館前でよく授業をしていました。それとあの学校では冬の体育の授業で絵画館のまわりをジョギングさせるんです。だからそういう意味であそこには親しみがあります。
:いいですよね。子供の頃に住んでいたところに今も住んでいるんだから羨ましいよ。
あとは通学路に慶應病院があって、慶應病院には誰が設計したのかはわかりませんけれど、各病棟に入るのにポーチ型の車寄せがあるんです。それがクラシカルで明治の洋館みたいで、すごく好きでした。

坂本一成氏
坂本一成氏

おふたりの先生はどなたでしたか。
坂本(一成)先生です。
坂本先生と高橋公子先生です。

同級生はどなたになりますか。
西沢大良ですね。オランダに上原(雄史)、室蘭工大に山田深がいます。
アトリエ・ファイで長くやっている日下野夏子さんですね。一級上には寺田真理子さん、赤松(佳珠子)さん、友利(浩子)さん、石黒(由紀)さんがいます。一級上の人たちはいろいろな形で残っていますから、そういうアクティヴな代だったかもしれませんね。
:僕の一級上はみかんぐみですね。
西沢大良氏 みかんぐみ
西沢大良氏

みかんぐみ


塚本さんは大学に残りましたけれども、それはどういう理由からですか。
:大学院の2年のときにひとつ別荘を設計して、なんかできる気になっちゃったんです。ちょうどバブルの頃で、あの頃にはいい建築をつくっている人がいなかった。それで就職する気にならなかったというか、バブルだから就職しないほうがいいんじゃないか(笑い)、もうちょっと落ち着いてからのほうがいいんじゃないかと思って、学校に残りました。

おふたりは最初にどこで会ったのですか。
:バブルの頃にJIA(日本建築家協会)が外国からいっぱい建築家を呼んでワークショップをやっていたじゃないですか。バーナード・チュミとか、トム・ヘネガン、エリア・ゼンゲリスを呼んだときに、篠原(一男)先生がゲスト・プロフェッサーのひとりで、そのときに僕は大学院の博士課程の学生で、奥山さんといっしょに篠原先生のチューターをやりました。貝島はみんながお金を払っているのに優遇でお金払わずにのこのこ来ていました(笑い)。
シ?ン・ヨハネス
シン・ヨハネス氏


あれは高かったんです(笑い)。仲の良かった武蔵美のジン・ヨハネスとかがすごい高いのに行くというので、「よくお金があるね」と他人事だと思って聞いていたら、ギリギリになって「人手が足りないから来ない」と先輩が言うんです。それで「行きたい。行きたい」と参加させてもらったんです。
:そのときに初めて貝島を「目撃した」。

塚本さんはドクターの頃ということですが、貝島さんは大学生だったのですか。
学部の4年生の頭だと思います。



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